慶応3年(1867年)10月 江戸駿河台 小栗忠順邸 小栗忠順
城を出ようとした矢先、最悪の報せが舞い込んだ。
――大政奉還。
幕府が預かる政を朝廷へ還し奉るという。
やられた。やはり将軍家やお偉方だけを京に置いておけば、碌なことにならぬ。とはいえ、こうなってしまっては今すぐ打てる手も無い。一度邸へ戻り、考えを纏めた方がましであった。
城より邸へ戻った折、急ぎ飛脚が門前に控えていた。「こちらの書状を、直接お渡しするよう横浜の伊達正様より仰せ遣っております」差し出された手紙をその場で開き、ざっと目を通す。「しばし待て。直ぐに返書をしたためる故」そう言い置いて奥へ引き返し、急ぎ筆を執った。「すまぬが、この書状を伊達正へ頼む」そう言って相場以上の金子を渡そうとすると、「結構でございやす。既に伊達様より十分に頂いておりますれば」飛脚は丁寧に礼をすると、颯爽と駆け去っていった。
翌日の昼過ぎには、早駕籠で軽装の伊達正が邸へ現れた。「書状を戴き、急ぎ馳せ戻りました」息を弾ませながら、目の前で深く頭を下げる。「心配をかけたか。確かに酷いことに相なった」何と言えばこの男を安心させられるのか、咄嗟には思いつかなかった。「滅相もございません。某などが上野介様を案ずるなど僭越とは承知しております。されど、居ても立っても居られず……」その言葉に、危うく涙腺が弛みかける。「――で、相場を見て、戦はまだ無いと思うのだな」気を逸らすように問い掛けると、伊達正はすぐに頷いた。「はい。思うに倒幕派は既に準備段階にはあったのでしょう。しかし、大政奉還で腰を折られたように見えまする」なるほど。確かにそれはある。「直前であるなら、塩がもっと高騰していてもおかしくはありません。兵糧は無論必要にございますが、多くの兵は戦へ赴くのです。物見遊山ではございませぬ故」やはりこの男は、次代に残すべき人物だ。「であるなら、次の一手で倒幕派が何をしてくるかが問題か」思案を巡らせていると、伊達正は低く声を落とした。「奴等は未だ若き天皇を奉しております。こちらを煽るような勅を戴き、攻め寄せてくるのが最も厄介にございます」そうだ。思慮の浅い跳ねっ返り共の暴発こそ、何より手に余る。「分かった。その辺りも含めてご注進申し上げよう。ただ……抑え込めるとも思えぬが」押し留めようともがけども、時勢は容赦無く襲い来る天災の如く、人を翻弄してゆくのであった。




