慶応3年(1867年)4月 横浜太田町 仏蘭西語伝習所 伊達正
この頃になると、深川にも不穏な浪士や倒幕派の輩が跋扈していた。そのような者達に、容易に身元を掴まれる恐れは抱いていない。だが、横浜の仏蘭西語伝習所で講師を勤めて欲しい、という上野介様の要請で、横浜の太田町に居を移すことになった。
ここ太田町は外国交流の一大拠点、自分のような通訳は勿論のこと、貿易商・両替商のような商人から、幕臣や脱藩浪士に及ぶまで多種な人材に溢れ返っていた。西洋馬車道が整備され、馬糞などの獣臭に混じって港町特有の潮の香りが漂っていた。一獲千金を狙いギラつく日本人商人に、言葉巧みに誘いをかける外国人商人。独特の熱気の中で、人の欲そのものが渦を巻いているかのように思えた。それでも上野介様の着想になる、兵庫商社が設立され、一定の秩序は成されるかに思われた。その陰で三野村利左衛門殿などが、忙しく立ち回っている様には頭の下がる思いがした。
そんな欲望の空気を肌で感じながら歩んでいると。「少しお話を聞かせて頂いても、よろしいかな」と、自分よりやや若く感じる青年に呼び止められた。「某でよろしければ、かまいませぬが」やや警戒の念を走らせるが、悪意を感じるほどでは無かった。「私、周防から参った商人で伊藤俊輔と申します。こちらの事はとんと存ぜず、途方に暮れておりました」伊藤俊輔?確か長州の若手志士にそのような名の者がおったような。「構いませぬよ、某でよければご案内いたしましょう」どのような意図で、自分に声をかけてきたかは分からぬが、こちらの身元も分かっておらぬようだ。
「なるほど、通訳の方なのですね。仏蘭西語伝習所より、出ておいででしたので幕臣の方かと思ったのですが」なるほど、それでこちらに探りを入れるために近寄ってきたのか。「某は以前、長崎にもおりましてな。蘭語にもある程度は親しみはあり申す」こちらの本名・素姓を明したところで、上野介様との関わりは分かるまいな。「蘭語と英語は兄弟のように似ておりますれば、日常の会話程度なら理解はできます」驚いて、こちらに問い返してくる。「それに加えて、仏蘭西語にも明るいのですか?」ここは少し、真偽を織り交ぜよう。「ええ、箱館にいた折に、仏蘭西人の宣教師に手解きをいただいて」瀬兵衛様と、助平なカションの顔が浮かぶ。必死に頭の中で、人物を照合させようとしているのが見て取れる。「その時に、幕府のお役人にお声掛けを頂いてこちらへ」どうやら煙に巻けたようだ。「又、お会いする機会がありましたらお付き合い頂けましょうか?」中々どうして、上手くは引き下がってくれないようだ。「ええ、構いませんよ。その時は気軽にお声掛けください」丁寧にお辞儀をすると、およそ商人には見えぬ足取りで店を後にした。カップから漂うカフィーの香りに、少しだけ緊張の糸を解いた。それにしても、ここにまで薩長の手は伸びて来ている。いよいよ、この国を覆う大きなうねりが、すぐ背後にまで迫っているのを感じずにはいられなかった。




