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慶応2年(1866年)9月 江戸駿河台 小栗忠順邸 伊達正

9月の頭、上野介様から急な呼び出しがあった。まだ夏の暑さを幾分か残す夜、神田川の川面に灯籠の明かりが揺れていた。すれ違う猪牙舟からは、かすかな白粉の香に紛れて酒の匂いも漂っていた。


いつものように、裏の勝手門から上野介様の邸に入ると、離れの洋室へと通される。そこにはすでに、三野村利左衛門(未だ美野川利八)殿が座っており、上野介様と歓談されていた。「おお、参ったか。そこに座れ。今、茶を持たせる故な」と、小さなハンドベルを揺らされた。細君である道子様自ら、カップを盆に載せ供してくだされた。「この度、京へ上ることになっての。この際、江戸と大坂の金融を繋げようと思うのじゃ」唐突に放たれた言葉に、自分も利左衛門殿も一瞬硬直した。「そなたの訳してくれた書の中の、バンクなるものの礎として三井・鴻池・小野組などの大手の両替商などを中心に株仲間を結成させようと思うのだが」事もなげに、上野介様は仰られるが…途方もない計画だ。「先ずは大坂で、鴻池らを中心にまとめ上げるつもりじゃ」何事も一足飛びには運ばぬ。先ず大坂で株仲間を組織させ、その後に江戸と接続する…利にかなっている。「軍備だけが西欧に追いついたとて、金融や財政が疎かでは話になるまい」最もなことだ、この御方の頭の中では全てが近代化へ向けての布石となっている。「その方を京へ連れて行きたいが、此度はやめておこう。江戸に残り利左衛門の三井掌握の手伝いをしてやってくれ」京へ同行出来ぬことは残念ではあったが、やるべき事が多い。「畏まりました、上野介様のため全身全霊を持ってあい務めまする」そう言った自分を、困ったように上野介様が窘められた。「そうではない、皆のため日の本のために…何よりそなたのために働け。よいな」こうして9月の下旬、上野介様が京へ向けて旅立たれた。その背を見送った時、何故か胸騒ぎにも似たものが、心の底に静かに沈んだ。

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