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慶応元年(1865年)1月 江戸駿河台 小栗忠順邸 伊達正

久方ぶりに上野介様の呼び出しがあった、ここ暫くは筋違橋で降りて神田へと向かうことが多かった。本来ならば駿河台へもここで乗り降りするのが楽なのだが、自分の立場では…人に紛れて向かえる柳橋を選ぶことにしている。


いつもの離れの一角に通されると、書類に目を通されている上野介様が輝いて見えた。ご自身の施策が、この国を動かし始めている。その気迫が、書類に目を通す姿にすら滲んで見えた。「おお、来たか。そこに座って待っていてくれ、この書類に目を通したら話がある」そう言われてから、ものの刻もかからずに顔を上げられた。「夏にフランスから造船所技師を招く。お主に公的な通訳としてでは無く、私的な通訳として横須賀への同行を頼みたい」はて、この事が意味することとは。「まえに蘭語から仏語への訳語辞典を渡していたな、辞典だけでは分からぬことも多かろう。同行し、実地で学んでみよ」なんと、そのような事のために自分を表向きな場面に引上げると。「言うたであろう、その方には可能性が満ち溢れていると」元はと言えば、助けられた身の上だ。そこまで自分の事を、気にかけてくれていようとは。「謹んでお受けいたします、何か他にお助け出来ることなどありましょうか」ゆっくりと首を振られ、にこやかに仰られた。「些事を気にかけることはない、今は己の蓄積にだけ心掛けよ」下げた頭を上げることが出来なかった、上げてしまえば色々な思いが噴き出してしまいそうで…。


上野介様と暫く会わぬうちに、出会った当時の事を思い出し懊悩していた。あの時、暗殺剣の技を見られたのではないか。だが、邸にて斬撃なき死体について一切問われなかった。5人もの侍を葬ったというのに、番所へ出向けとの沙汰も無かった。もっと不思議なのは、命を奪った者に対して、身体を検めるなど一切せずに邸に招き入れたことだ。あの折、鎖付き分銅や脇差しに模したレイピアを咎められれば、口を封じる他無かった。…だが、あの時の事を聞き返すことなど出来ぬ。すでに、上野介様に心酔し始めてしまっている自分がいる。師との約を違えようとも、この御方に報いたい。その思いが心の中で交錯し、答えの出せない自分に苛立ちすら覚えていた。


頭を上げない自分に気づき上野介様が「次の時代を担う者が、些事に囚われてどうする」その言葉に、救いを得た心地がした。と同時に様々な思いが胸中に溢れ、ただ肩を震わせることしか出来なかった。

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