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文久3年(1863年) 10月 江戸柳橋 料亭亀青楼 伊達正

新八郎の体力も回復の兆しをみせ、この頃には右手での剣の稽古を始めようとしていた。木場町の皆も何くれとなく、気遣いをしてくれた。自分は上野介様から戴いた、蘭語から仏語への訳語辞典と格闘していた。そんな時に小栗家の遣いの者が来て、柳橋の料亭『亀青楼』へ来て欲しいとの連絡が届いた。亀青楼か、一流の料亭だ流石は大身旗本の上野介様だ。多少の浮つきを抑えつつ、足取りが軽くなるのまでは止められなかった。


陽が暮れかかり、三味線のかすかな音と共に白粉の香が鼻先をかすめてゆく。亀青楼の暖簾をくぐると、上野介様の手筈が届いていたのか。「伊達正様でございますね、お連れ様がお待ちになっておられます」と、奥の一際豪奢な襖へと案内された。「おお、参ったか。ささ、こちらに参られい」正面には上野介様、左手には瀬兵衛様がそして右手には初めて見る異人が芸者の酌を受けていた。「これが以前に話た、フランス人の助平じゃ」瀬兵衛様が豪快に笑いながら、異人を紹介してくれた。「スケベはナイデショ、オハツにオメニカカリマス。ルメル・カションとモウシマス」流暢な言葉運びで、挨拶をしてくれた。「申したであろう、そなたは可能性に溢れておる。その可能性を広げるためにも多く人、多くの種族に出会うておくべきだ」有難い、上野介様には他にも多くの御骨折を戴いているのだ。「カションよ、この男は凄いぞ。そなたの日本語のように蘭語を解して会話が出来る」瀬兵衛様がいうと。それを聞いてカション殿が蘭語で問い掛けてきた、この御仁ただの助平ではない。他にも操れる言語があるのやもしれぬ、落ち着いてこちらも蘭語で答え

る。「スバラシイ、ココマデのオランダ語をアヤツるニホンジンにアッタのハジメテです」感心したが、傍らの芸者から手を離そうとはしない。「カション殿も蘭語まで話されるとは、他にもエゲレス語なども理解出来ているのでは?」素直な疑問を口にすると。「聞いておらんぞ、カションよ。お主オランダやエゲレスの女にも手を出しているのか?」瀬兵衛様がからかうように軽口を叩いた。「フランスのオトナリがオランダで、ウミをマタイでエゲレス。コトバがハナセナケレばクドケません」やっぱり女か、だがこれが西欧の常識なのだ。「ところで、フランスにはエゲレスに対抗して幕府と近づく腹づもりがあるのか?」上野介様が核心を突く言葉で、場の流れを変えられた。「ハイ、フランスはエゲレスにオクレをトッテます。バクフにチカヅクためにタショウはユズルでしょう」やはりそうか、遅れを取っている自覚はあるのだ。「江戸に近い場所に、製鉄所を造ろうと考えておる。それに技師や資金を提供出来るか?」上野介様が尚も、詰めた問いを発せられる。「ワタシのクチからはナントモ。タダ、ロッシというタイシがフニンします。カレにトリツグコトはカノウです」なるほど、流石に一介の領事補では決められぬ話か。「では、大使が来日の折にはその方に通訳と取次ぎを頼もう」と、上野介様が仰せになると。「アリガタキシアワセ、そのニンココロしてハゲミます」喜び勇んでいたが、芸者の手は決して離そうとはしなかった。


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