文久3年(1863年)8月 江戸駿河台 小栗忠順邸 伊庭新八郎
喉の渇きを覚え、目を開けるとそこには見覚えの無い天井が広がっていた。直ぐ横に、若が座ったまま眠りこけていた。若を起こそうと、寝台に手を突いて身を起こしかけた。次の瞬間、身体の均衡が崩れ、左側へ大きく倒れ込む。それに気付き、若が目を覚まされた。「大事ないか、まだ体力が回復してはおらん。ゆっくり、寝ていろ」頷いて、身体を横たえると若が「すまんな、そなたの命を救うため左腕を切除した」そうか、俺は左腕を深く斬られて気を失っていたのだ。「暫くは左腕があるかのように痛みを覚えたり、動かせているように感じることが頻繁におこる」遣る瀬無い思いがひしひしと伝わってくる。「だが、これから共に闘って行こう。お主は一人では無い、自分もそれを分かち合う故」そうか俺はこれからもう、若をお護りすることが出来ないのだ。その思いが、不意に口をついて出てしまった。「いっそ、そのまま死に往けた方がよかったのに…」若が感情をあらわにして、吐き捨てるように言った。「なぜそのようなことを言う、その方が死ねば俺は本当に天涯孤独になってしまうではないか」顔が歪み、大粒の雫が幾重にも零れている。「お主と俺は、共にお互いしか身内がおらぬ家族だろうが」若が俺のことをそのように思って下さっていたとは、天井が潤んで揺らいでいた。
俺が斬られて運ばれたのが小栗邸であること、その小栗様の御骨折で仙台藩と折衝してくださることを聞かされた。「たったこれしき、こんなにもあっさりと型がつくことに、これまでどれ程の命が費やされてきたのでしょうか?」虚しさの余り、力が抜けていくように思えた。そのせいか、或いは若が処方してくれた薬のせいか意識が俺の元から離れていった。




