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文久3年(1863年)8月 江戸駿河台 小栗忠順邸 伊達正

年貢の納め時か。それでも、師との約だけは違えられぬ。明かせば、ここで惨劇を演じる他なくなる。


自分の本名、これまでの経緯、追われる身であることを余さず話した。「仙台藩にそのような御家事情があったとはな、それでその方はどういたしたい」その意図するところを判じかねていると、上野介様が続けて問われた。「俺に堀部安兵衛を演じて欲しいか?」成る程、この御方は職を辞した旗本だ。大名相手だろうと臆することは無いだろう。「いえ、某の望みは市井にあって多く人を助けること。亡き父母も決して、仇なすことなど望んではおりますまい」そうだ、今更仙台藩に戻って何になろう、単に異物として厄介がられるのが関の山だ。「確かにの、今更ではあるのう。その方にはすでに職が有り、腕もある」瀬兵衛様が頷いている、認めてくださるのが有難かった。「だが、このままにもしておけぬ。俺が骨を折っても構わないぞ」と言うと、上野介様は「起請文を書け。俺が裏書きをして、仙台藩と談判してやろう」と申し出てくだされた。「丁度これから、暇を持て余す予定なのでな」瀬兵衛様は顔を顰められたが、上野介様は盛大に笑い飛ばされた。

「他にも面白そうな話をしておったではないか、痘瘡を予防すると言っておったな」やはり引っ掛かっておられたのだな、何食わぬ顔で流しておいでだったのに…油断ならぬお人だ。「ええ、嘉永2年(1849年)に長崎に入ってきた牛痘苗ワクチンなるものを使って、伊東玄朴様がご自身の御子息で試されたそうにございます」まだ、幕府の中枢には広まってはいないらしい。「そのようなものまで入ってきておるのか?」あれ?そんな調子の顔で瀬兵衛様が「なんだ、お主知らなんだのか?シーボルト殿の弟子達を中心に人体に害なきや、自らや近しい者で試していると聞いている」流石は幕府の医師、出島での最新医療の話は届いているらしい。「は?幕府の中枢には届いておらぬぞ…斯様なことも届かぬとは井伊様が討たれて以来。御老中達の、なんと頼り無きことか」上野介様の御心痛ももっともである、ここの所幕府は全てにおいて後手に回っている。

「確か本当の名は伊庭新八郎だったな?あの者を養生させるためにも、暫しこの邸に留まるがよい。深川へは当家の中間を遣わそう」そう言うと、家臣を呼び出し手際良く段取りつけて下さった。「その方はまだ若い、当家におればこのような異物にもまみえることが出来よう」そう言って、瀬兵衛様に目線を走らされた。「異物とは酷い言い様だな…異物繋がりではないがどうだ又さん、一度カションに会ってみないか?」カション?聞かぬ名だ、長崎では耳にしたことはない。「例のフランス人か?エゲレスが薩摩や長州に近づいていると聞く、その当て馬にフランスか…分かった一度連れて来てくれ」このような大事な話、自分のような部外者が聞いても良いのだろうか。「さっそく面白そうな異物に会えるぞ、フランス人には会ったことがあるまい」どうやら、自分もその場へ引きずり出されるらしい。…どうやら暫くは退屈をせずに済みそうだ。

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