明治20年(1887年)5月 イギリスロンドンサウスケンジントン 日本村 伊達忠七
正様と時を同じくしてニューヨークを発ったが、ロンドンに着いたのは自分の方が早かっただろう。何せアメリカ大陸を横断することもなく、だだっ広い太平洋を渡ることも無いのだ。テムズ川を遡り、ロンドン港に着くと、早速その足で三井のロンドン支店を訪れた。
「忠七様、お久しぶりです。退社されて以来だから、7年振りですか?」
「ああ、あの頃の君は入りたてのひよっ子だったが、今じゃロンドン支店長か。立派になったな」
「横浜からロンドンへと来られたのですか?」
「横浜からニューヨークに一年近くいて、そこからのロンドンだ。ニューヨークとロンドン或いは日本を繋げる人材を探しにやって来た」
そう言って、ロンドン支店長の渡辺専次郎と暫し歓談していた。
その後、目当てのサウス・ケンジントンにある日本村へとやって来た。だが、肝心の日本村の経営は傾き、当初の興行主タナカー・ブヒクロサンから英国人へと権利は売られていた。それでも、そこにはまだ職人や芸人は残っていた。その中でも、芸人の関根市太郎と木工職人の広田幸之助はこちらの話を聞き、興味を示してくれた。経営が行き詰まっているのだ、将来に向け少しでも足しになれば…という打算が大きいのは弁えておかねばなるまい。
それでも、ロンドンの市井の声を受け取れるのは大きい。引き続き彼らには、こちらの目となり耳となってくれる仲間を探してくれるように頼み、イタリアは水の都ヴェネツィアを目指した。イタリアにも幾人も日本人はいたが、組織としてコミュニティを持ち合わせているのがヴェネツィアの商業高等学校だった。ここでは日本人と商売をしたいイタリア人らが集い、日本語教育も行われていると専次郎に聞いている。その日本語教師である、長沼守敬を紹介して貰っていた。
だが、ヴェネツィアに着いた時には日本に帰る仕度をしている最中だった。しかし、新たに入れ替わりで日本語教師として赴任した、伊藤平蔵に運良く会えたのは僥倖だった。彼と共にイタリア人の協力者や日本人の仲間を募る事ができた。こうしてロンドン・ヴェネツィアで仲間の輪を広げていくと、正様のやりたい事が見える気がした。決して儲けをあげて、利を貪りたい訳では無いのだ。利をあげるのは、仲間を繋ぐため仲間に苦しい思いをさせないためなのだ。そんな事を考えながら、ゴンドラに揺られていた。




