明治20年(1887年)3月 東京府牛込区通寺町 保善寺 伊達正
横浜港に帰り着いた丁度その時、高峰譲吉君と益田孝殿が、アメリカに向けて肥料製造機械の買い付けに行く場面に出会した。二言三言挨拶を交わし、旅程の無事を願って別れた。これで、北海道の甜菜栽培にも新たな道が示される時が来るのかもしれない。その思いを胸に、横浜港に降り立った。
家へと帰り着いたが、正宗の様子がどことなくぎこちない。何か言いたげな様子を見せては、他の事へと気を散らせている。何事かあったに違いないのだが、いい加減に腹に据えかねて言った。
「何があったというのだ、言わねば一生伝わりはせぬぞ」
観念したかのように、正宗は語り出した。
「…子が出来ました。父上にとっての初孫にございます」
いつの間に、最初の思いはそれだったが後を追って孫の誕生を嬉しく思った。と、同時におかしくも思った。嬉しきことを、何故言いづらそうにしているのかと。
「孫と嫁は何処におるのか?」
「子に正義と名付けました。正義は乳母に抱かれて、控えておりますが…妻は出産の折に命を落としました」
そうか、二代続けて母を知らぬ子となってしまった事を気に病んでの言いづらさだったか。
「妻はお澪と申したのですが、国子様の身の回りのお世話に上がっていた娘で、幾度か訪ねる際に結ばれ、子が出来ました」
無念そうな面持ちで、正宗が続けた。
「11月に出産したのですが、看護の甲斐なく3日後に亡くなりました」
「そうか、若くして子を残してのこと…さぞ無念な事であったろうな」
「今は私の乳母であった静の元に、お佳代という乳母を迎えて世話をして貰っています」
そう言うと、正義を抱いたお佳代を呼んで孫に対面した。正宗よりも母親に似ているのかもしれない…だが、どことなく見覚えがある気もしていた。
3月29日、道子様の三回忌法要が保善寺で執り行われた。国子様は矢野龍渓殿の弟の貞雄殿を迎えられ、小栗家を再興され今日の日を迎えられていた。国子様にご挨拶した際、どことなくよそよそしさをかんじずにはいられなかった。一瞬目が合ったが、途端に泳がされた。それも結婚されて間も無い故の事、と自分を納得させ帰途についた。帰り道で、孫である正義の顔が浮んだ。そうか、どこかで見覚えがあると思ったのは上野介様の眼差しではなかったか。だが、それをもって正宗と国子様を結び付けるには至らなかった。




