明治19年(1886年)12月 アメリカニューヨーク ダスティ商会 伊達正
8月のコネモー湖での面会以来、カーネギー及び周辺の鉄鋼・鉄道産業への論議が幾度となく交わされていた。一番過激だったのはパトリックで。
「そんな不遜な態度なら、そのうち痛い目を見るに違いない。今ならこちらへの損害も無い。手持ちの関連株を売ってしまった方がよい」
それに輪を掛けて冷ややかだったのがアイザックの意見だった。
「当然リスクは考慮すべきだ、だが今は順調に伸びているのならこちらもそれに付き合って買っておこう。ただ、一度リスクの芽が顔を出したなら、空売りも含めて存分に返してやればいい」
一方で慎重なのはオットーで、こちらの他の持株への影響も考慮して発言した。
「確かに鉄鋼・鉄道業界は結び付きが強く、傾くならば諸共にだろう。だが、あの業界だけが限定的に被害を受ける訳では無い。我が商会が株を持つVacuumOilにも、それ相応の被害が出ることを考慮しなければならない」
それを聞いていた忠七も議論に参加する。
「リスクは投資をしている以上避けられない。だが、減らすことは可能だ。一つは分散させること。一箇所で大打撃を受けても、他で持ち応えれば重傷は避けられるはずだ」
こうやって議論を重ねれば、より良い投資判断に繋がる。何処に問題があるのか、気付くことも可能になってくる。皆が自分を見ている、最終判断を私に求めているのだろう。
「そうだな、今早急に手を打つ必要はないだろう。皆に欠けているのは、国際的な視野だ。ニューヨークというアメリカ金融の中心にいるばかりに、アメリカ国内にのみの視点で止まってしまっている」
皆が動揺しているのが、手に取るように分かった。
「今はまだ、国内のパイを奪い合うだけで満足出来ているが、市場が膨らめば外へと打って出ざるを得ない。それを見越して、海外…ニューヨークならば欧州とのかけ橋となる人材を集めねばならない。今、一番求められているのはロンドン・ローマ・パリ・ベルリンを知る人物。…違うか?」
それを聞いて、皆が一斉に動き出した。パトリックは港湾へ、アイザックはユダヤコミュニティへ、オットーは銀行関連の知り合いの元へ、忠七も百太郎や領一郎や豊などの仲間の元へと向かって行った。自分が集めた人材が、さらに多くの人材を集めていく。こうしてダスティ商会は、大きくなって行くのだろう。日本からは国子様が婿を迎えられ、小栗家を再興させたとの報せが入っていた。まさかすでに子を産み、その父親が正宗だとは終ぞ知ることは無かった。




