明治19年(1886年)11月 神奈川県神奈川宿 成仏寺付近の借家 小川正宗
まさか2月のたった一度の交わりで、子を授かることになろうとは思いもよらなかった。それを知らされたのは、7月の両国の川開きの時であった。すでにお腹はややふっくらとしており、見る者がみれば子を授かったことが分かるほどになっていた。
国子様の思いは頑なだった。お腹の子を人知れず産み、大隈様から縁談で紹介された矢野貞雄殿を小栗家に迎える…というものだ。すでにお腹が目立ってくる前の6月の初めに、矢野殿とお会いになり内諾を大隈様に伝えているとのこと。ならば自分に出来る事は、出産までの間と産後を過ごす場所を見つけること。産まれた子に付ける、乳母を見つけ出すことも忘れてはならない。
幸い、両方共に労せずに見つけ出す事が出来た。自分の乳母であった静が、成仏寺付近に住んでいた。先年に叔母である鈴が亡くなって、一人暮らしをしていたのでそこを出産場所として確保した。乳母についても、静の紹介で身元の定かなるお佳代という者を充てることになった。ただ、結婚を前に突然深川から姿を消しては怪しまれるので、大隈様・矢野殿には体調を崩したので横浜山手で養生することは伝えた。産婆も野毛山の十全医院で学んだ女を手配し、出産の時に備えた。
冬の足音が徐々に近づく11月半ば、国子様は出産なされた。元気な産声をあげる男の子だった。国子様は憔悴されながらも、この事は決して漏らさぬように口止めされた。例え証拠を突き付けられ、証言を求められようとも認めてはならないと。それが二人にとっての、曲げられない正義だった。
国子様は男子に『正義』と名付けられた。
「私達は貴方に理不尽な正義を押し付けました、でも貴方は貴方なりの正義を守る男子になって欲しいから『正義』と名付けます」
親子二代…いや三代に渡って両親の揃っていない子にしてしまった。その思いを察したのか、国子様が仰られる。
「これは私達二人の罪、決してこの子に罪はありません。なので、身勝手ではありますが…どうかこの子が幸せに過ごせるようにお願いします」
そう言われると、国子様は大粒の涙を幾重にも零された。そんな国子と正義を包み込むように抱え。
「必ずや、必ずや…」
その後の言葉は終ぞ出てこなかった。




