明治17年(1884年)12月 アメリカニューオリンズ ニューオリンズ博覧会 伊達正
正宗から聞いたルイージ・ジャンニーニの死は、古くからの友人を失ったような気持ちにさせた。たった一度きりの出会いだったのに、あの人懐っこい気さくな笑顔が今も鮮明に思い出せる。ただ、息子であるアマデオや奥さまは、今も息災であることに幾分かは慰められた。
一方、ニューオリンズの博覧会を目指し伊達邦成様主従と我らの一行は、オークランドで鉄道に乗り。カルフォルニア、ニューメキシコの荒野を経てテキサスの広大な平原を横断し、ルイジアナのニューオリンズへと到着した。邦成様と田村殿は初めての鉄道での長旅に、太平洋での船旅以上に度肝を抜かれていた。ニューオリンズの駅に降り立つと、ニューヨークからアイザックが来ていて投宿する宿から、会場の案内まで全て手筈を整えてくれていた。
博覧会の開幕を受け、市内の混雑は大変なものでアイザックがいなければ迷子になりかねない状況だ。それでも街には音楽が溢れ、また各種の言語に溢れ返っていた。そんな時、聞き覚えがある声に呼び止められた。
「これは伊達様に田村様、ニューオリンズの博覧会にお越しになられたのですね」
それは以前、農商務省で会った高峰譲吉君だった。今回の博覧会での日本館の実質的な責任者として、ニューオリンズへとやって来たようだ。後日、日本館での再会を約してその場では別れた。
ニューオリンズの博覧会は、南北戦争から復興した南部の主要産業である綿花と製糖業を前面に押し出しつつも、世界の産業を紹介していた。我々の目的である、製糖産業と化学肥料も大々的に紹介されていた。邦成様と田村殿も熱心に説明に聞き入り、有珠での甜菜栽培の参考にしようと必死だった。我々とは別の場所では、高峰君も化学肥料について学んでおり。後に聞いた話では、大量のリン鉱石と過リン酸石灰を買い付けて帰ったという。ただ、ニューオリンズの製糖業は砂糖黍を原料としているため、甜菜を用いた製糖とは若干の違いはあった。
それでもこの博覧会で、得るものは多いにあった。大規模農業に、農業機械の展示。どれも今後の北海道の農業に、活かしていけそうなものばかりだ。邦成様と田村殿の目は、熱を帯びていた。今日見たものを、少しも逃すまいという熱だ。彼らのような先進的で、貪欲な知的好奇心に満ちた農業経営者達がいる限り、北海道はこれからもっと発展していくはずだ。そう、このニューオリンズのように大量の産物を送り出す、一大生産拠点となり得るはずだ。




