明治15年(1882年)10月 神奈川県横浜 ダスティ商会 伊達正
暑い盛りを過ぎ、段々と過ごしやすくなってきた秋の中頃。結核の症状が落ち着き、小康状態になった鈴木東一郎がダスティ商会に顔を見せた。共にアメリカに渡った忠七も林蔵も、帰って来た東一郎を心から歓迎した。無理が出来ない東一郎に、二人は交代で一から業務を教え諭していった。二人にとっても、これまで培ってきた能力を再確認するためにも良い機会になるだろう。
それとは別に、東一郎には相場の観察と見通しを義務付けていた。商会の業務を任せるだけなら、彼が学んできたことを活かすことにはならない。自分が学び取ってきたものと、東一郎が観察したものとを突き合わせて、相場の方向性を議論する。この時の東一郎には、やり甲斐を得て楽しんでいる者特有の笑顔を見て取れた。彼の病気のことを考えると、外に出て足で情報を得ることには向かないが、集めた情報を精査する能力を磨いて行けば、きっと彼が満足のゆく自分自身に巡り会うことが出来るはずだ。
業務をこなしながらも、そのような生活を続けるうちに、日に日に皆と同じ様な暮らしを送ることが可能になってきた。病は気から…まさにそれを体現するかのように、生き生きと仕事を楽しんでいた。だが、釘を刺すことも忘れてはならない。睡眠を削って、食事も摂らずに。ということが無いように、皆がお互いに窘めあって業務をこなしていた。
そんなゆったりとしながらも、減り張りが効いた仕事をしていると。自然と息子である、正宗との時間も増えていった。時には商会に顔を出し、休憩の合間に三人と経済談議に花を咲かせたりもしていた。中学に入ったばかりの者が、し得ないような話をすることもしばしばあった。忠七、林蔵、東一郎、そして正宗。楽しそうに語り合う四人を見ていると、将来のダスティ商会を見ているような気分になった。ここに又四郎がいてくれれば、これ以上望むものは無い。
窓の外に目を向けると、秋の夕日がゆっくりと街を染めていた。その景色を眺めながら、これまでの歩みを思い返した。自分の人生も、黄昏時を迎えたのかもしれない。この先、彼らに何を残すことが出来るのだろうか。そう考えた時、不思議と寂しさより『年をとったものだな』という思いが込み上げてきた。




