明治15年(1882年)7月 大阪府西区西長堀 郵便汽船三菱会社 杉沢又四郎
前年の政変で、三菱と岩崎弥太郎殿への風当たりは強かった。だが、当の弥太郎殿はどこ吹く風とばかりに高島炭鉱の運営に手を尽くしていた。しかし、このところ体調が優れないことが続いていた。頭痛や胃の痛みに悩まされ、それをやり過ごしては仕事をこなすことが増えていた。例え己が身を削っても、自分が興した会社を大きくすることが、彼にとっての大義なのだろう。その意味では、正様と似ているとも言える。あの方は自分と関わりを持つ人々を守るためなら、例え己が傷つこうとも一切気にしないだろう。その正様の元に、三井を離れた伊達忠七殿が戻ったと耳にした。それを耳にして胸の奥に、もやもやとした感情が湧き起こることをこの時はまだ気にも留めていなかった。
そんな忙しい日々の中、三菱にとっての凶報が飛び込んできた。共同運輸設立の報である。政府は三菱一強の海運事業に独占を許さぬためか、渋沢殿や三井を巻き込んだ海運会社を後押しした。これによって、海運会社同士の熾烈な競争が繰り広げられるのは必至だ。きっと正様は、この競争に立ち入ることはしないだろう。どちらにも面識があり、伝手がある。あの方はどちらか一方に、肩入れすることを良しとはしないだろう。だが、長く三菱との仲を繋いできた自分はそうはいかない。例え短期間だけでも、ダスティ商会と反目することになろうとも…。それだけ弥太郎殿や弥之助殿と接してきた時間は、濃密なものになっていた。彼らだけではない、幹部を含め一従業員に至るまで多くの時間を共有してきた。あの方なら、そんな人々を見捨てるような真似はしないはずだ。
弥太郎殿は不調であろうと、無理を押して陣頭に立つようになった。弥之助殿も、高島炭鉱に付きっきりで掌握に努めている。そんな彼らの元、自分も資金の融通や経費軽減の案を出すなど、後押しに奔走した。この日々が三菱との結び付きを強くし、後に与える影響など一切意識などしていなかった。忠七殿は帰るべき場所へ帰った。ならば、自分の帰るべき場所は何処なのだろうか。そんな考えが一瞬脳裏を過ぎったが、目の前の仕事が掻き消していった。




