明治14年(1881年)12月 神奈川県横浜 ダスティ商会 伊達正
岩崎弥太郎殿に会った翌月、北海道の官有物払い下げが発表された。38万7000円で、無利息の30年賦での払い下げは当事者でなくとも、憤りを禁じ得ない金額だった。下手すると、ダスティ商会ならばそのまま一度に払い切れてしまう。これを郵便報知新聞社は、大々的に糾弾した。一部政府官僚と政商との密約が生んだ、国民の財産を売り渡す愚挙であると。さぞ鋤雲様の筆が踊ったことだろう。
さらに岩崎殿も三菱を代表して、独占的な売却に異を唱えて声をあげた。国民からも実業界からも反対に晒され、民意の反発は予想以上だったことだろう。それに力を得た、大隈重信殿も民意の受け皿となる、国会の開設を求めた上奏文を陛下に提出されていた。だが、それを良しとしない伊藤博文や岩倉具視らが大隈殿を罷免。それと同時に、1890年に国会を開設する勅諭を発して幕引きを諮った。
最終的には北海道の官有物の払い下げは中止され、北海道開拓使も予定通りに翌年廃止される。官有物はその後に設けられる、函館県・札幌県・根室県へと移行されることとなった。我々の当初の目標は達成された…だが、代償も大きかった。大隈殿は政府を追われ、岩崎殿も五代殿と同様に政商のレッテルを余儀なくされてしまう。ただ、岩崎殿などは何とも思ってはいなさそうで。また一つ呼ばれる名称が増えた、と笑い話にしておられた。やはり伊藤博文という男は、一筋縄では行かない男だった。まさか官有物払い下げを使って、政敵を退場させる絵図を描いていたとは思いもよらなかった。
そんな怒涛一年、去る者もいれば来る者もいる。表の舞台に送り出したはずの、忠七が帰って来た。
「もう一度、正様の元で働かせては頂けないでしょうか。益田孝様には、すでに断りを入れて身辺整理もしております」
「何故だ、このまま表舞台にいれば実業界に名を残すことも出来ようものを」
「私には裏も表も関係無いのです。伊達正という男の元で働きたいのです」
そう言い終えると、目からは大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。そんな忠七をしっかりと抱き寄せ、耳元で『よく帰って来た』と呟いた。それを聞いてまた、忠七は嗚咽を漏らして咽び泣いた。また、あの日々が帰って来たようで、自分の視界もいつしか歪んでいた。




