明治14年(1881年)11月 東京府日本橋区駿河町 三井物産 伊達忠七
この日、自分は三井を去ることを伝えるべく、益田孝様の元へと向かっていた。本店売買方支配人、という役職にまで就けて頂いたのだが、自分の居るべき場所は正様の元なのだ。その全ての肩書きを捨て去る。三井を離れる葛藤は確かにあったが、そこまで重いものでは無かったように今は思う。
「御時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
書類仕事に没頭していた益田様が、自分の声に反応してゆっくりと頷いた。
「この度、三井を辞したいと思い、お願いに上がりました。何卒、お許し頂きたく思います」
「意外と長く、私の元に残ってくれましたね。もっと早く去るのではないかと、心配していたのです」
ハッとした。三井に戻ってからは、益田様の元で忠実に働いていたつもりだったのだが…。
「貴方も意外でしたか?私が『貴方が何時か去る者』と考えていたことが」
「ええ、三井では決して職務を疎かにしていたことはありませんので」
「はい、貴方はこちらの要求に足るだけの成果は、しっかりと出してくれていました。ただ、心は別の場所にあるのも分かっていました」
まだまだだな、益田様に見抜かれていようとは。
「では私が三井を去った後に向かう場所も、御存知なのですね?」
「ええ…私はあの方ほど魅力的ではありませんでしたか?」
「いえ、決してそういう訳ではございません。時間の問題なのです。私は長くあの方の元で教えを受けましたし、可愛がっても頂きました。離れる折に思ったのです。いつかもう一度、あの方の元で働きたいと」
「そうですね、詮無い事を聞きました。忘れてくれると有難い。引き継ぎや諸々の事が済み次第、貴方が去ることを認めましょう」
そう言った益田様の顔は、何処か寂しげだった。その時に初めて三井を去る寂しさと、益田孝という人物の大きさを感じた。凡庸な経営者なら、何としても引き留めようと好条件を並べ立てたことだろう。だが、益田様は違った。もしかすると自分が三井に戻った時から、この日が来ることを予期していたのかもしれない。そう考えると、益田孝という経営者もまた稀代の器を持つ者なのかもしれない。




