第五話 最弱のスライム
暗い。
最初に感じたのは、それだった。
次に、湿り気。
そして、動けない。
いや、正確には“どう動けばいいのか分からない”。
自分の身体の輪郭が、曖昧だった。
手も足もない。
視界も、不明瞭だ。
(なんだ、これは)
口が無いのか言葉を喋れない。
思考はある。
はっきりと自分は、自分だと認識できている。
だが、それ以外が何も分からない。
ふと、記憶がよぎる。
あの男。
銀行員。
淡々とした目。
何度挑発しても、冷静に同じ説明をを繰り返した。
今までの相手とは少し違う。
怯えない事への苛立ちがあった。
「帰さない」
そう言った。
自分が、上にいると信じて疑わなかった。
そのはずだった。
だが、奴は警察を呼ぶと言った。
腹立たしいが帰すしか無かった。
納得はしないが警察沙汰にはしたくない。
それから数日間、どうやって、あの銀行員をひれ伏せさせてやろうかと思案に暮れていたある日。
突然、ぐに、と視界が揺れた。
いや、身体が揺れているのか。
そのとき、初めて理解した。
自分は、“何か別のもの”になっている。
それが、人ではない今の姿だった。
不意に暗闇の中で足音が聞こえた。
重い、規則的な振動。
地面を叩く音が、近づいてくる。
逃げなければ。
本能がそう思う。
だが動き方が分からない。
身体に力を込める。
だが、どこに?
どこを動かせばいい?
分からない。
思考だけが空回りする。
足音は、もう目の前だ。
「なんだ、これ」
声が聞こえた。
若い男の声。
そして巨大な影が、覆いかぶさる。
(まずい)
思考と意思だけが、鮮明にある。
だが、身体は応えない。
「スライムか」
笑い声が響く。
次の瞬間、衝撃と圧力があった。
スライムの身体の全てが、潰れる。
(痛い)
声にならない。
痛みだけが、世界を満たす。
焼けるような、潰れるような、引き裂かれるような感覚。
そこで意識は消滅した。
再び同じ感覚。
暗い。
湿っている。
動けない。
さっきと、全く同じ。
(今、死んだはずだ)
だが、自分はここにいる。
また、同じ場所に。
同じ状態で。
息苦しい。
いや、そもそも呼吸しているのかも分からない。
だが、“恐怖”だけははっきりとあった。
(まさか、同じ事を繰り返すのか……)
その理解に至った瞬間。
また、足音がした。
「ここにいるぞ!」
さっきとは別の声。
「弱いんだよな、こいつ。経験値も稼げないしゴミだよな」
笑い声が響く。
そして、再び衝撃と破壊。
痛みが繰り返される。
———
何度目か、分からない。
時間の感覚も、曖昧になっていく。
ただ一つ確かなのは。
何度繰り返しても終わらない。
逃げられない。
抗えない。
(なんでだ)
心の中で叫ぶ。
だが、答える者はいない。
ただ、断片的に記憶が甦る。
あの時の光景が。
銀行員の、あいつの顔と、冷静な声。
思い通りに媚びない、あの男の態度に苛立った。
あの時。
自分は、相手を“人”として見ていなかった。
ストレス発散の為の道具。
自営業者の自分と違って、奴らは安定の上に胡座をかいでいる。苦労を知らない。そんな奴らは精神的に追い込んでも構わない。
お金が必要だった。
仕事が頓挫して、焦りがあったのも確かだ。
奴らは結果を出さなくても給料が貰える。
お金に困らない。
胃に穴が開くほど悩まさせてやれば良い。
社会に必要なのは俺の方だ。
奴らは俺のストレス発散の道具として機能すれば良い。
だが、今、自分がそうなっている。
誰かの経験値獲得の為の道具。
面白半分で、意味もなく殺す奴らもいる。
……足音が繰り返されるが、もう驚かない。
ただ、来るのを待つしかない。
抗う術はない。
攻撃力はほぼゼロ。
逃げてもすぐ捕まる。
弱すぎる身体。
恐怖と痛みは慣れる事なく、永遠に繰り返される。
理解した瞬間、絶望が、涙となって形を持った。
自分は、選ばれたのだ。
排除される側に。




