第六話 代償
違和感は、些細なものだった。
昼休み。
いつものように席を立ち、歩き出した瞬間。
(重い)
足が、ほんの一瞬、だが確かに、動きが鈍った。
気のせいかと思った。
疲労。
あるいは、単なる体調の問題。
そう片付けようとした、そのとき。
頭の奥で、“何か”が鳴った。
音ではない。
感覚でもない。
だが、確かに“認識”として流れ込んできた。
『未完了』
意味が、分からない。
だが、言葉の理解はできる。
未完了……何が。
次の瞬間、映像が脳裏に差し込まれた。
暗闇と湿った地面。
そして、潰される感覚。
砕ける。
引き裂かれる。
スライムの感覚。
あの男の視点が、断片的に、だが確実に痛みと共に伝わってくる。
眉をわずかにひそめる。
(まだ、終わっていないのか)
そのとき、理解した。
“排除”は完了していない。
まだ途中だ。
処理ではなく、“移送”しただけ。
そして、その先にある“結末”が、未確定のまま残っている。
だから。
未完了。
胸の奥が、わずかにざわつく。
今まで、こんなことはなかった。
消したら、それで終わりだった。
だが今回は違う。
繋がって残っている。
あの世界の、あの男の存在が。
送り込んだ者に対し、“最終選択”を行う義務がある。
放置はできない。
未完了のままでは、成立しない。
自ら赴く必要がある。
小さく息を吐く。
なるほどな、と内心で呟く。
無制限の力ではない、ということか。
当然といえば当然だ。
代償。
あるいは、制約。
それがなければ、この力は人の行使すべき範疇を超えている。
いや。
もう十分、超えているか。
わずかに口元が緩む。
整理する。
選択肢は、二つ。
許すか。
終わらせるか。
どちらも可能。
だが、今回は、考えるまでもない。
あの男の顔が浮かぶ。
あの視線。
あの笑い。
人を壊すことを楽しむ目。
そして。
過去に壊された人間。
精神を病み、降格した支店長。
結論は、出ている。
許さない。
視界が歪み、音が遠のく。
空間の輪郭が、崩れる。
周囲の景色が、ノイズのように揺らぐ。
身体の感覚が、薄れていく。
最後に、支店のフロアが見えた。
いつもの光景。
いつもの静けさ。
それが、ゆっくりと遠ざかる。
次の瞬間。
足元の感触が、変わった。
柔らかい。
湿った土。
空気が、重い。
わずかに腐臭が混じる。
目を開ける。
そこは、薄暗い森の中だった。
視線を落とす。
いた。
小さく、震える存在。
透明に近い、粘体。
スライム。
あの男だ。
こちらに気づいていない。
ただ、わずかに揺れている。
逃げようとしているのか。
あるいは、ただの反応か。
どちらでもいい。
ゆっくりと、一歩近づく。
スライムが震える。
わずかに、後退する。
だが遅い。
逃げられない。
そのとき。
ほんの一瞬だけ、躊躇が、よぎった。
許す、という選択。
ここで終わらせず、このまま放置することもできる。
あるいは、別の形で。
だがその考えは、すぐに消える。
不要な思考だ。
「終わりだ」
静かに告げる。
言葉が通じるかどうかは、関係ない。
これは確認だ。
自分自身への。
手を伸ばす。
そして触れる。
その瞬間。
スライムが、激しく震えた。
逃げようとする。
だが、逃げられない。
掴む。
柔らかい感触。
簡単だ。
あまりにも。
少し力を入れると、ぐしゃり、と音もなく潰れた。
何も残らない。
その瞬間、頭の奥の“何か”が、静かに閉じた。
完了。
空気が変わり、世界が遠のく。
再び、引き戻される感覚があった。
視界が白く弾ける。
気づけば、支店の裏通りだった。
昼休みのまま。
時間は、ほとんど経っていない。
手を開く。
何もない。
ただ確かな感触だけが、残っていた。
日常へ戻る。
フロアへ戻る。
何もなかったかのように。
ただ一つ、確実に分かったことがある。
この力は、“終わらせるまでが仕事”だ。




