第三話 相続
課長の席から窓口を見渡す。
窓口の若い女性行員が課長代理の方をチラリと見ている。
しかし、課長代理は黙々と書類に目を落として気付くそぶりが無い。
役職者として全体の指揮をするのが課長代理の仕事だが、この数週間一緒に仕事をしてきたが、彼女は部下に対する発信が全くない。
ただ、自分の仕事をこなすだけだった。
部下も不満を持ち始めていた。
何故彼女は課長代理になれたのか。
疑問を持つ者も増えてきた。
男は自らの課長代理時代の事を思い返していた。
彼女に、課長代理の在り方について、どう伝えるべきか。
相続の書類を確認する際に、ふと当時の事件が思い出された。
———
その日、午前中の窓口は、比較的落ち着いていた。
前日までのざわつきが嘘のように、空気は穏やかだった。
「相続のことで、ご相談がありまして……」
受付に現れたのは、六十代半ばほどの女性だった。
疲れた顔をしている。
だが、どこか神経質な雰囲気を醸し出していた。
対応に入ったのは若手の女性行員。
丁寧にヒアリングを進めていく。
「お父様の口座の件ですか」
「はい……もう亡くなって二十五年になるんですけど……」
亡くなってから随分経つな、と内心で思う。
「残高証明と、できれば……通帳の出し入れの記録を確認したくて」
行員の手が、わずかに止まる。
嫌な予感がする案件だ。
自然と耳がそちらへ向く。
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
女性は一瞬迷い、そして口を開いた。
「姉が……父と同居して面倒を見ていたんです」
「通帳も印鑑も、全部姉が管理していて……」
「言われた金額しか、知らないんです」
典型的な相続紛議の構図だった。
行員は慎重に応対して女性の持参した書類に目を通す。
戸籍謄本一式と、お父様の通帳の記号番号のメモ。
女性の本人確認書類で相続人である事の確認は出来る。
ただ……。
行員が言葉を選ぶ。
「ご希望の期間については、当行の記録の保存期間を超えている可能性がございます」
「……え?」
「当行では、取引履歴の保管期間が定められておりまして……」
女性の表情が、剣幕へと一気に変わる。
「出せない、ってことですか?」
「期間によってはお出しできない可能性がございます」
「そんな……」
表情に苛立ちが混ざる。
「……ちょっと、電話してもいいですか」
女性がスマートフォンを取り出す。
数十秒後。
「代わって下さい」
短く言って、電話の向こうの人物に変わった。
激しい大きな男の声が、スピーカーにしてないのに周りに漏れる。
「おい、どういうことだ」
威圧的な声だった。
「記録が出せないって、どういう意味だ」
行員は一瞬だけ言葉に詰まり、それでも冷静に応じる。
「恐れ入ります。記録には保存期間がございまして……」
「そんなのは関係ない」
即座に遮られる。
「こっちはな、騙されたんだ。急いでいるんだ」
論点がずれている。
だが、こういうタイプは人の話は聞かない。
「恐れ入ります。すべての期間の記録を保証するものではなく……」
「いいから出せ」
語気が更に強まる。
「必ず出せ。分かってんだよ、面倒くさいだけだろ!本当は出せるんだろ」
典型的な自己中心的な、内部事情を知らないがゆえの決めつけ。
「申し訳ありません。物理的に保管がないものについては……」
「金が必要何だよ!」
声が一段階上がる。
フロアの空気がわずかに張り詰める。
行員の肩が、目に見えて強張った。
ここで、俺が前に出る。
受話器をそっと受け取る。
「お電話代わりました。課長代理の……」
「誰だお前」
「担当の責任者です」
女性行員から変わった事への、探るような一瞬の沈黙があった。
「……じゃあ話が早い。出せ」
同じ要求を繰り返す。
「恐れ入ります。まず一点、ご確認させてください。今回のお手続きの相続人は奥様でよろしいですね」
「だから何だ」
「申し訳ありませんが、ご本人様とお話しさせていただけますか」
そう言って窓口の女性に視線を移す。
女性は戸惑った表情を浮かべた。
「いや、代わらない」
「妻は丸め込まれるからな。内容は聞いて、俺が全部分かってる」
「申し訳ありません。ご主人様であっても、ご説明は相続人ご本人様にしか出来かねます」
「いいから出せって言ってんだろ!」
怒声が響く。
「出さないだけだろ?サボってんじゃねえのか?」
論理が崩壊している。
これ以上は電話では無意味だ。
「では、一度相続人様である奥様の前で、ご自宅へご説明に伺ってもよろしいでしょうか」
少し間を置く。
「……来い」
「納得するまで説明しろ」
その日の午後。
指定された住所を訪れる。
古い戸建てだった。
玄関のドアが開く。
出てきたのは、窓口に来ていた女性。
電話の男が奥から叫ぶ。
「上がれ!」
電話と同じく命令口調だった。
靴を脱ぎ、室内へ入る。
妻は同席するが、口を挟む様子はない。
男が、正面に座る。
「で?」
腕を組む。
「なんで出せない」
最初からやり直しだ。
丁寧に説明する。
保存期間について、現存しない記録は復元不可能であること。
一つ一つ、順序立てて話す。
だが。
「そんなのは理由にならない」
「こっちはな、納得してねえんだよ」
身を乗り出してくる。
距離が近い。
「前の担当者はな」
不意に話題が変わる。
「ミスした時、二度としないって約束したぞ」
ニヤリと笑う。
「で、聞いたんだよ。次ミスしたらどうすんだってな」
さらに詰めてくる。
「そしたら辞めるって言ったぞ」
ゆっくりと、眼鏡を外す。
そして俺の顔のすぐ手前に眼鏡を突き出し、ぶつかる寸前で止める。
露骨な威圧。
「お前はどうなんだ?」
「責任者として、同じこと言えるのか?」
息を整える。
そもそも今回の件はミスではない。
そして、前任者がそんな事を言うとも思えない。
ただ、意味のない話で反応を楽しんでいるとしか思えない。
同じ話を延々と繰り返しているだけで、時間は無駄に過ぎていった。
「申し訳ありませんが、辞めるというお約束はできかねます」
はっきりと答える。
男の眉がわずかに動く。
「……納得できねえな」
「納得する答え出すまで、今日は帰すつもりねえからな」
はっきりと告げられた。
逃がさない、という意思表示。
軟禁である。
頃合いを感じて静かに立ち上がる。
「申し訳ありません」
一歩、距離を取る。
「これ以上の拘束が続く場合、警察へ通報いたします」
既に三時間説明してから時間が経っていた。その間、『納得するまで帰さない』の言葉を何度も繰り返されていた。
男の目が細くなった。




