第9話 奇跡ではありません
王太子ルシアンの小さな喉が動き、ごくり、ごくりと、ゆっくりとしたペースでスープが飲み込まれていく。
ほんの少しの塩と野菜の甘みだけが溶け込んだ、限りなくお湯に近い薄いスープ。
しかし、それは間違いなく、ここ数ヶ月の間、彼が初めて自らの意思で飲み込み、そして吐き出さなかった『食事』だった。
やがて、小さな器の中身が空になる。
サヨは、ルシアンの震える手からそっと器を受け取った。
「よく頑張りましたね。とても上手に飲めましたよ」
サヨが微笑みながら頭を撫でると、ルシアンは少しだけ恥ずかしそうに、けれど安堵したように目を細め、ゆっくりとベッドに背中を預けた。
ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、その顔には深い疲労の色が浮かんでいる。
「……奇跡だ」
静寂に包まれた病室で、最初に声を上げたのは聖女リナだった。
彼女は両手で顔を覆い、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「あれほど……私がどんなに高度な治癒魔法をかけても、一口も召し上がれなかったのに……。先生、これは奇跡です。先生は殿下に、魔法以上の奇跡を起こしたんです!」
リナの言葉に呼応するように、騎士団長のレオンも興奮した面持ちで大きく頷いた。
「ああ、俺もそう思う! サヨさんは昔から魔法使いみたいだったが、まさか王宮の治癒師たちでも治せなかった殿下を、たった一杯のスープで救っちまうなんて!」
「本当に……神の御業としか思えませんわ……」
部屋に控えていた侍従や侍女たちまでもが、サヨをまるで本物の聖女か何かを見るような、畏敬の念に満ちた眼差しで見つめ始めている。
しかし。
サヨ本人は、そんな熱狂的な空気を前にして、困ったように小さくため息をついた。
「二人とも、落ち着いて。大げさに騒ぎすぎよ」
サヨは、空になった器を木盆に乗せながら、極めて冷静な声で言った。
「奇跡なんかじゃありません。ただ、今の殿下の弱りきった胃腸が、受け付けられる温度と味にしただけです。それに……」
サヨは、ベッドで浅い寝息を立て始めたルシアンに目を向けた。
「今は、ほんの一口飲めたというだけです。殿下の体力が落ちきっていることに変わりはありません。これだけで全快するなんて、そんな魔法みたいな料理、あるわけないでしょう?」
十七年間、客の体調を見極め、それに合わせた食事を提供してきたサヨからすれば、これはごく当たり前の処置だった。
冷え切った胃には、温かいものを。
刺激を受け付けない体には、徹底的に刺激を抜いたものを。
それは奇跡でも魔法でもなく、ただ『食べる人』をよく観察すればわかる、生活の延長線上にあるケアでしかない。
「……そ、そうだ! その通りだ!」
サヨの冷静な言葉に、弾かれたように声を荒らげたのは、王宮医師長のガイウスだった。
彼は先ほどまで完全に沈黙していたが、サヨの「奇跡ではない」という言葉を都合よく解釈したのか、再び権威ある医師としての顔を取り戻していた。
「たかが白湯同然の汁を数口飲んだだけで、病が治るはずがない! 殿下の御身体には、まだまだ深刻な栄養不足が続いているのだ! おい、すぐに次の食事の準備を! 次はもっと栄養価の高い、滋養強壮の薬膳スープを持ってくるんだ!」
ガイウスの指示に、侍従たちが慌てて動き出そうとする。
だが、サヨはそれをきっぱりとした声で制止した。
「駄目です。今すぐ次の食事を入れれば、殿下はまた確実に吐いてしまいます」
「な、なんだと!?」
「空っぽだった胃袋が、やっと動き始めたばかりなんですよ。急に重いものを入れたら、胃腸がびっくりしてしまいます。まずは一日、いや数日は、薄いスープかお白湯で胃を慣らすのが最優先です」
サヨは、ガイウスの鋭い睨みにも怯むことなく、言葉を続けた。
「それよりも今必要なのは、こまめな水分の補給と、十分な睡眠です。この部屋で焚いている香炉は、すべて片付けてください。残っていると、また吐き気を誘発します。それから、殿下が安心してお休みになれるよう、監視の人数も最低限まで減らすべきです」
部屋の環境を整え、患者が心から休める状態を作ること。
前世で看護師として働き、今世で食堂の女将として客を迎え入れてきたサヨにとって、それは食事と同じくらい重要なことだった。
しかし、その言葉は、王宮の医療を取り仕切るガイウスの逆鱗に触れた。
「……素人が、図に乗るなよ」
ガイウスが、ギリッと奥歯を鳴らし、サヨに向かって歩み寄る。
「たまたま殿下の機嫌が良くて、あなたの水のようなスープを飲まれただけだ。それをいいことに、王宮の医療と警護の体制にまで口出しする気か! 食事のことならともかく、治療の責任者は私だ。田舎の食堂女風情が、二度と私の治療方針に口を挟むな!」
怒りで顔を真っ赤にしたガイウスの剣幕に、サヨは一瞬、肩をビクッと跳ねさせた。
大柄な男性が権威を振りかざして怒鳴る姿は、どうしても前世の夫の影を思い出させる。
——医者でもないのに、偉そうに口出しをするな。
記憶の底から響くその声に、サヨの足がすくみそうになった、その時だった。
「——彼女の言葉が聞こえなかったのか、ガイウス医師長」
低く、地を這うような冷たい声が、病室の空気を一瞬にして凍らせた。
声の主は、王弟エリアス殿下だった。
彼はゆっくりと歩み出ると、サヨを庇うように、彼女の前にすっと立った。
その広い背中は、ガイウスの放つ威圧感を完全に遮断し、サヨを絶対的な安全圏へと包み込む。
「で、殿下……しかし、この者は医療の素人で……」
「医療の素人かもしれないが、彼女は私の客であり、殿下の食事の全権を任せようと私が直々に招いた人物だ。彼女の意見を無下にするということは、私の判断を愚かだと謗るも同義だが。……違うか?」
エリアスの碧眼が、冷ややかにガイウスを射抜く。
普段の穏やかな彼からは想像もつかないほどの、圧倒的な王族としての威厳。
その重圧に耐えきれず、ガイウスはわなわなと唇を震わせ、ついにその場に深く首を垂れた。
「……も、申し訳、ありません……そのようなつもりは……」
「サヨ殿」
ガイウスから視線を外したエリアスは、振り返ると、声の温度をふわりと優しく戻してサヨを見た。
「あなたの思う通りになさい。誰が何と言おうと、あなたにはここで意見を述べる権利がある。私がそれを保証しよう」
その言葉は、サヨの胸の奥にあった冷たい恐怖を、魔法のように溶かしていった。
前世の夫は、サヨの言葉をいつも「素人の戯言」と切り捨て、誰の目から見ても彼女が正しい時でさえ、決してかばってくれることはなかった。
けれど、エリアスは違う。
彼はサヨの専門外の無知を責めるのではなく、彼女が持つ『ケアの専門性』を正しく評価し、公的な場で彼女の盾となってくれたのだ。
サヨは、小さく息を吸い込み、エリアスに向かって深くお辞儀をした。
そして、顔を上げると、今度ははっきりとした視線でガイウス医師長を見据えた。
もう、怯えはなかった。
「……ガイウス医師長」
サヨの声は静かだったが、病室の隅々にまでよく通った。
「私は医師ではありませんから、薬の処方や魔法のことに口出しする気はありません。治療の邪魔はしません」
サヨは、水仕事で節の太くなった両手を、エプロンの前でしっかりと組んだ。
「けれど、食事の邪魔はしないでください」




