第10話 覚えていない優しさ
強烈な匂いを放っていた香炉が片付けられ、窓の隙間から入り込む涼やかな風が、病室の空気をゆっくりと入れ替えていく。
薄い野菜スープをほんの数口だけ飲んだ十二歳の王太子ルシアンは、まるで長旅を終えたばかりのような深い安堵の表情を浮かべ、静かな寝息を立て始めた。
ずっと眉間に寄っていたシワが消え、幼い本来の顔立ちに戻っている。
「……しばらくは、このまま静かに休ませてあげてください。人が多いと気が休まらないので、監視の方も半分に」
サヨが小声で指示を出すと、侍従たちはもはや反論することなく、静かに頷いて数人を残し部屋を退出していった。
王宮医師長のガイウスも、何か言いたげに口を動かしていたが、王弟エリアスの冷ややかな視線を背中に浴び、逃げるように病室を後にした。
王宮副料理長のオルガに至っては、自分が信奉していた最高級の料理が完全に拒絶され、見下していた田舎料理が王太子の喉を通ったという現実を受け止めきれず、顔面を蒼白にしたまま足早に去っていった。
静寂が戻った病室を聖女リナと騎士団長レオンに任せ、サヨはスープを作った隣の控え室へと戻った。
「ふぅ……」
魔導コンロの火を落とし、小さな鍋を片付けたところで、サヨは大きく息を吐き出した。
張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れたような感覚だった。
王宮の恐ろしい権威者たちを前にして、あんな啖呵を切ってしまうなんて。
前世の、いつも夫の顔色を窺ってばかりいた小鳥のような自分が見たら、きっと気絶してしまうだろう。
「……少し、肩の力は抜けましたか」
背後からかけられた穏やかな声に、サヨはビクッと肩を跳ねさせ、慌てて振り返った。
そこには、扉を静かに閉めるエリアスの姿があった。
近衛の騎士たちは外に控えているらしく、広い控え室の中には、サヨとエリアスの二人きりだ。
「え、エリアス殿下。申し訳ありません、私、先ほどは偉い方々に向かって出過ぎた真似を……」
「謝る必要はありません。むしろ、私が謝罪すべきです。あなたに不愉快な思いをさせてしまった」
エリアスはゆっくりと歩み寄ると、サヨから少しだけ離れた、威圧感を与えない絶妙な距離で立ち止まった。
「あなたの毅然とした態度、本当に見事でした。誰もルシアン自身の顔色を見ていなかった中で、あなただけが、彼が何を恐れ、何を望んでいるのかを正確に理解していた。……本当に、感謝します」
「そんな、感謝だなんて……。私はただ、弱っている人には温かくて薄いものを、と、当たり前のことをしただけです」
サヨが照れ隠しのように目を伏せると、エリアスは小さく、心地よい低音で笑った。
「あなたは、昔から本当に変わらないのですね」
「え……?」
昔から。
その言葉に、サヨは顔を上げた。
そういえば、病室に入る前にも、彼は「以前、あなたの店で救われたことがある」と言っていた。
「殿下は……本当に、私の食堂にいらしたことがあるのですか?」
サヨは、信じられない思いで尋ねた。
灯火食堂は、街道沿いにあるとはいえ、貧民街との境目にあるような大衆向けの店だ。こんなにも高貴で、美しい人が足を踏み入れるような場所ではない。もし来ていたなら、絶対に覚えているはずだ。
「ええ。もう十数年も前のことになります。……まだあなたが、店を開いて間もない頃でした」
エリアスは、懐かしいものでも見るように、窓の外の青空に目を向けた。
「当時、この国は激しい王位継承争いの真っ只中にありました。私は兄である現国王を支持していましたが、反対派からの妨害は熾烈を極め……私は幾度となく暗殺の危機に晒されました」
サヨは息を呑んだ。
王宮の権力闘争。それは、平民であるサヨの想像を絶するような、血みどろの世界だったはずだ。
「数日間、ろくに眠ることも食べることもできず、味方すら信じられなくなっていた私は、追っ手から逃れるために身分を隠し、王都を離れました。泥除けの外套を深く被り、汚れきった身なりで、当てもなく街道を歩いていた時に……偶然見つけたのが、あなたの店だったのです」
エリアスの言葉に、サヨは必死に記憶の糸をたぐり寄せた。
十七年前。店を開いたばかりの冬。
しかし、毎日数え切れないほどの客がやってきては去っていく食堂で、泥だらけの男の記憶を特定するのは至難の業だった。
「ひどい有様だったと思います。外套には泥と血がこびりつき、目つきは獣のように荒んでいた。普通の店なら、塩を撒いて追い出されてもおかしくない客でした」
エリアスは、ふっと優しく目を細め、サヨを見た。
「ですが、あなたは私を追い出さなかった。顔色を一目見ただけで、一番厨房に近い、暖炉のそばの温かい席に私を座らせました。そして……今日、ルシアンに出したものと同じ、野菜の甘みだけが溶け込んだ、温かいスープを出してくれたのです」
サヨの胸が、小さく高鳴った。
「あなたは私の素性など一切聞かず、ただ一言、こう言いました。『今日はもう頑張らなくていいですよ。温かいうちにどうぞ』と」
エリアスの深い碧眼が、真っ直ぐにサヨを見つめる。
「その言葉で、張り詰めていた糸が切れました。私は、王弟として戦わなければならない駒ではなく、ただの『疲れた一人の客』として扱われた。……あのスープの温かさとあなたの言葉がなければ、私はきっと、あの冬を越えられなかったでしょう」
エリアスは、深々とサヨに向かって頭を下げた。
「あ、頭を上げてください、殿下! 私、そんな大層なことは……!」
「私にとっては、命を救われたに等しい出来事だったのです」
顔を上げたエリアスの瞳には、隠しきれないほどの深い敬愛の色が宿っていた。
サヨは、どうしていいか分からず、エプロンの裾をぎゅっと握りしめた。
彼がどれほど真剣に語ってくれても、サヨの記憶には、どうしてもその光景が浮かんでこないのだ。
「……申し訳、ありません」
サヨは、消え入りそうな声で言った。
「私が毎日、どれほどいい加減に店をやっていたかということですよね……。殿下の大切な思い出なのに、私、本当に覚えていなくて……」
前世の夫であれば、ここで間違いなく激怒しただろう。
『俺のことを忘れるとは何事だ』『どれだけ恩知らずな女なんだ』と。
自分の存在をないがしろにされることを、彼は何よりも嫌ったからだ。
だからサヨは、怒られることを覚悟して、きゅっと身をすくませた。
しかし——。
「謝る必要など、どこにもありませんよ」
降ってきたのは、怒声ではなく、春の陽だまりのように柔らかく、甘い声だった。
サヨが恐る恐る顔を上げると、エリアスは全く傷ついた様子もなく、むしろ愛おしいものを見るような目でサヨに微笑みかけていた。
「あなたが覚えていないことこそが、私にとっては救いなのです」
「え……?」
「あなたは私を特別扱いしたわけではなかった。あの店にやってくる、傷ついた孤児や、疲れ果てた旅人たちと同じように、ただ『目の前にいる弱った人』として、当たり前に慈悲を与えてくれた。……だからこそ、私はあれほど安心できたのですから」
責めるどころか、覚えていないことすらも肯定してくれる。
その徹底した優しさと、全てを包み込むような大人の余裕に、サヨは顔にカッと熱が集まるのを感じた。
王族である彼が、ただの食堂の女将である自分に、こんなにも甘く、敬意に満ちた視線を向けている。
それは、前世で女性としての自信を完全に叩き潰されたサヨにとって、戸惑うほどに眩しい光だった。
「それに……」
エリアスが一歩だけ、サヨに近づく。
「あなたが忘れてしまっていても、構いません。私がずっと、覚えていますから」
エリアスは、胸に手を当てて静かに微笑んだ。
「私は、あなたの覚えていない優しさに救われた一人です」




