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第8話 一口目のスープ

「……これでは、食べられるものも食べられません」


サヨの静かな、けれど確信に満ちた言葉が、薄暗い病室に響き渡った。


「なっ……! あなた、自分が何を言っているのか分かっているのですか!」


激昂したのは、王宮副料理長おうきゅうふくりょうりちょうのオルガだった。

彼女は顔を真っ赤にして、サヨを指差す。


「我が国の最高峰の食材を使い、一流の料理人たちが徹夜で仕上げたこの料理を侮辱する気ですか! これ以上の栄養と滋養に満ちた食事が、どこにあるというのです!」

「栄養があることと、食べられることは別です」


サヨは、怒鳴るオルガから視線を外し、ベッドで丸くなっている王太子(おうたいし)ルシアンへと目を向けた。


「胃腸が食事を拒絶している時に、こんなに濃厚なバターの香りと、強い香辛料の匂いを嗅がされれば、大人でも吐き気がします。それに……」


サヨは部屋の四隅で白い煙を上げている香炉(こうろ)を見やった。


「この強いお香。おそらく薬の匂いや病の気を消すためでしょうけれど、弱っている身体には刺激が強すぎます。すぐに火を消して、窓を少しだけ開けて換気してください」

「馬鹿なことを! 外の穢れた空気など入れたら、殿下のお身体に障ります!」


王宮医師長(おうきゅういしちょう)のガイウスが声を荒らげる。

彼らにとって、この密閉され、管理され尽くした空間こそが『正しい医療』なのだろう。


だが、サヨは一歩も引かなかった。

前世で、何度も見てきた光景だ。

数字上のデータやマニュアルばかりを見て、ベッドの上にいる『人』の顔色を見ていない大人たちの姿。


「……言われた通りに」


反論しようとしたガイウスたちを制したのは、王弟(おうてい)エリアス殿下の静かで低い声だった。

その絶対的な威厳の前に、侍従たちは慌てて香炉の火を消し、分厚い遮光カーテンを少しだけ開けて、窓の隙間から新鮮な風を入れ始めた。


重苦しくねっとりとした香木の匂いが薄れ、清々しい外の空気が流れ込んでくる。

それだけで、ルシアンの呼吸がほんの少しだけ浅くなくなったのを、サヨは見逃さなかった。


「エリアス殿下。申し訳ありませんが、近くの厨房か、お湯を沸かせる場所をお借りできますか?」

「ええ。隣の控え室に、簡単な支度ができる場所があります」

「ありがとうございます。少しだけ、お待ちくださいね」


サヨは一礼すると、エプロンのポケットから小さな包みを取り出し、隣の部屋へと向かった。


用意された小さなコンロに火をつけ、小鍋に水を入れる。

そこへ、灯火食堂から持参していた、細かく刻んで乾燥させた数種類の根菜を入れる。

ぐつぐつと煮立たせるのではなく、ゆっくりと、野菜が持つ本来の甘みを水に溶かしていくようなイメージで、弱火でじっくりと火を通す。


味付けは、ほんの耳かき一杯程度の塩だけ。

肉のエキスも、バターも、香辛料も一切使わない。

ただただ、胃を温め、消化の負担にならないことだけを考えた、限りなくお湯に近い薄い野菜スープだ。


サヨは、用意されていた陶器の器に熱湯を注ぎ、しっかりと器自体を温めてから、そのお湯を捨ててスープを注ぎ入れた。

食べるのに時間がかかっても、なるべく冷めないようにするための、小さな工夫だ。


「お待たせいたしました」


お盆に乗せた木のスプーンと、小さな器。

それを持って病室に戻ると、オルガが信じられないものを見るような目で鼻で笑った。


「……はっ。何ですか、それは。ほとんどただの白湯ではありませんか。王宮の犬でも、もっとましなものを食べますよ。そのような貧しいものを、殿下の口に入れるおつもりですか?」

「ええ」


サヨはオルガの嘲笑を気にも留めず、ルシアンのベッドの傍に静かに膝をついた。


「殿下」


サヨが声をかけると、ルシアンはビクッと肩を震わせ、警戒するような目でサヨを見た。

その瞳の奥には、「また無理やり食べさせられる」「また吐いて苦しい思いをする」という強い恐怖が張り付いている。


サヨがスープを差し出そうとした瞬間、ベッドの脇に立っていた毒見役(どくみやく)の男が、血相を変えて前に飛び出してきた。


「お待ちください! 素性の知れない者の料理を、そのまま殿下にお出しするわけには——」

「大丈夫よ」


サヨは小さく微笑み、別の小さなカップに自分の分のスープを注ぐと、毒見役の目の前でゆっくりと飲み干した。


「ほら、おかしなものは入っていません。……それに、これなら毒を混ぜる隙もないでしょう?」


透明に近いスープは、不審なものが混ざっていれば一目でわかる。

毒見役が戸惑ったようにエリアスを見ると、エリアスは静かに頷き、下がらせた。


サヨは再び、ルシアンに向き直る。

そして、努めて柔らかい、いつもの食堂で客に向けるのと同じ声で語りかけた。


「ルシアン殿下。無理して食べなくてもいいんです」

「……え?」


初めてかけられた言葉に、ルシアンが小さく目を見開いた。

ガイウスもオルガも、常に「お食べください」「栄養をつけてください」と急かしてばかりいたからだ。


「怖いなら、怖いまま残していいの。一口も飲めなくても、誰もあなたを怒りません。……ただね、お腹の中が冷たいと、不安ってどんどん大きくなってしまうから」


サヨは、温めた器を、ルシアンの細く冷たい両手にそっと握らせた。


「食べるのが怖いなら、まずはこの温かさだけ、手で感じてみてください。それだけでいいんです」


じんわりと伝わる器の熱。

それは、怯えきっていたルシアンの手に、ほんの少しだけ血の巡りを取り戻させた。

強烈な香木の匂いも、むせ返るような肉の匂いもしない。

ただ、土の中で育った野菜の、ほのかな甘い香りだけが、湯気とともに鼻先をかすめる。


ルシアンは、手の中の温かさに少しだけ表情を緩ませた。

そして、サヨの「食べなくてもいい」という言葉に安心したのか、まるで警戒心の強い小動物が水辺に近づくように、ゆっくりと、本当にゆっくりと器に口を近づけた。


ほんの少しだけ、器を傾ける。

透き通った黄金色の液体が、ルシアンの乾いた唇を濡らし、口内へと流れ込んだ。


病室は、水を打ったように静まり返っていた。

全員が、息を呑んでルシアンの反応を見守っている。


また、吐き出してしまうのではないか。

ガイウスが緊張に顔をこわばらせ、オルガが「どうせ吐くに決まっている」と冷たい目を向ける中——。


「…………あ」


ルシアンの口から、小さく、けれどはっきりとした声がこぼれた。

喉が動き、ごくりと、スープを飲み込む音が響く。


「……味が、する」


ルシアンの大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。

それは、長きにわたる飢えと恐怖から、ようやく解放された安堵の涙だった。


「美味しい……温かい……味が、します……」


誰も信じられないという顔で、その光景を見つめていた。

王宮の最高峰の料理人が腕によりをかけた豪華な料理も、高名な治癒師たちが調合した秘薬も、一口も受け付けなかった王太子が。

田舎の食堂の女将が作った、ただの薄い野菜のスープを、涙を流しながら飲み込んでいるのだ。


「そんな……馬鹿な……」


オルガの顔から、さっと血の気が引いた。

美しい顔が蒼白になり、わなわなと震える唇からは、それ以上の言葉が出てこない。

ガイウスもまた、目を見開き、信じられないものを見るようにサヨとルシアンを交互に見つめ、完全に沈黙していた。


そんな中、サヨの後ろに立つエリアスだけは、驚く様子もなく、ただ静かに、深い敬意と慈愛に満ちた眼差しでサヨの背中を見つめていた。


「すごい……先生、すごいです……!」

「ああ。さすがはサヨさんだ」


聖女(せいじょ)リナが両手で口元を覆って感涙にむせび、騎士団長(きしだんちょう)レオンが誇らしげに胸を張る。


サヨは、周囲の騒ぎなど気にも留めず、ただ優しく微笑んで、ルシアンの背中をそっと撫でた。


「ゆっくりでいいのよ。急いで食べなくていいからね」


その温かい手と声に励まされるように。


王太子は、震える手でもう一度器を持ち上げた。

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