第7話 豪華すぎる病室
「私は以前、あなたの店で救われたことがあります。あなたは覚えていないでしょうが」
王弟エリアス殿下から告げられたその言葉に、サヨはしばらくの間、呆然と瞬きを繰り返すことしかできなかった。
こんなにも美しく、圧倒的な存在感を放つ高貴な男性が、自分の営むしがない辺境の食堂に来たことがある?
必死に記憶の糸をたぐり寄せてみるが、どうしても結びつく客の顔が浮かばない。
サヨが戸惑いの色を濃くしていると、エリアスはふっと優しく微笑んだ。
「今は、思い悩まなくて結構です。私が勝手に恩義を感じているだけですから。……さあ、参りましょう。ルシアンの部屋は、この奥です」
エリアスに促され、サヨは小さく頷いた。
今は、彼の言葉の真意を探るよりも優先すべきことがある。
あの重い扉の向こうで、食事が取れずに苦しんでいる十二歳の子どもを診ること……いや、診察はできない。彼を取り巻く『食事の環境』を見ることだ。
サヨは、きゅっとエプロンの紐を握り直し、エリアスの後に続いて歩き出した。
聖女リナと騎士団長レオンがサヨの左右を固めるように付き従い、その後ろを、不満げな顔を隠そうともしない王宮副料理長のオルガと、王宮医師長のガイウスがついてくる。
やがて、一行は離宮の最奥にある、一際重厚な造りの両開き扉の前に到着した。
扉の両脇には、完全武装した近衛兵が微動だにせず立っている。
「開けよ」
エリアスの静かな命により、重い音を立てて扉がゆっくりと開かれた。
——その瞬間。
「……っ」
部屋の中から流れ出てきた空気に触れ、サヨは思わず顔をしかめ、口元を覆いそうになった。
むせ返るような、強烈な匂い。
部屋の四隅に置かれた豪奢な香炉から、もくもくと白い煙が立ち上っている。高価な香木をふんだんに焚いているのだろう。甘く、そして重苦しい香りが、部屋中にねっとりと充満していた。
さらにサヨを驚かせたのは、その暗さだった。
外はまだ明るい昼間だというのに、窓には分厚い遮光カーテンが隙間なく引かれ、自然光が完全に遮断されている。
代わりに部屋を照らしているのは、魔石のランプの不自然に青白い光だけだった。
「……殿下、エリアス叔父上がお見えです。それに、治癒師長たちも」
部屋の奥から、侍従の押し殺したような声がする。
サヨが目を凝らすと、天蓋付きの巨大なベッドの真ん中に、小さな影がうずくまっていた。
王太子、ルシアン殿下。
十二歳という年齢以上に幼く、小さく見える。透き通るような金糸の髪は艶を失い、青白い顔にはくっきりと濃い隈が浮かんでいた。
何よりサヨの胸を痛ませたのは、その瞳の奥に宿る、怯えきった小動物のような色だった。
「ルシアン。調子はどうだ」
エリアスがベッドに近づき、極めて優しく声をかける。
しかし、ルシアンは力なく首を横に振るだけで、言葉を発しようとしない。その細い指は、絹のシーツをぎゅっと握りしめ、小刻みに震えていた。
「相変わらず、何も召し上がろうとしません」
ガイウス医師長が、重々しいため息をつきながら前に出た。
「毒は完全に抜け切っているというのに。……殿下、お食事を取られなければ、体力は落ちる一方です。今日も、王宮の料理人たちが殿下のために、滋養に満ちた最高の料理を用意いたしました」
ガイウスの言葉に合わせて、オルガ副料理長が誇らしげに顎を上げた。
侍従が、ベッドの脇に銀色のワゴンを運んでくる。
ワゴンの上に並べられていたのは、目を見張るほど豪奢な料理の数々だった。
最高級の魔獣肉を濃厚なソースで煮込んだもの。
バターと生クリームをたっぷりと使った、黄金色のポタージュ。
色鮮やかな砂糖菓子が添えられた、甘さの強い焼き菓子。
「いかがですか。栄養価も高く、香り高く仕上げております。これこそ、王太子殿下が召し上がるにふさわしい、我が国の最高峰の食卓です」
オルガは、部屋の隅に立つサヨをちらりと見下し、鼻で笑った。
「どこぞの田舎食堂で出されるような、貧乏人の野菜汁などとは次元が違うのですよ。さあ殿下、どうか一口だけでも」
しかし。
その濃厚な肉の匂いと、バターの香りがワゴンの蓋を開けた瞬間に広がった途端。
「っ……う、ぇ……っ」
ルシアン王太子は、口元を両手で激しく押さえ、えずき始めた。
胃には何もないはずなのに、胃液を吐き出そうと背中を丸め、苦しそうに涙目を浮かべている。
「で、殿下!? しっかりなさいませ!」
「おのれ、またか! 誰か、口の中を浄化する水を持て! 治癒魔法の準備を!」
慌てふためくガイウスと侍従たち。
オルガは「なぜ、こんなに素晴らしい料理が食べられないのか」と、信じられないものを見るような目で立ち尽くしている。
サヨは、その光景を静かに見つめていた。
(……ああ、やっぱり)
十七年間、様々な客の顔色を見てきたサヨには、痛いほどよくわかった。
前世で看護師をしていた頃も、同じような光景を何度も見た。
『正しい治療』や『最高の栄養』を提供する側と、それを受け入れられない患者との間にある、決定的なすれ違い。
サヨは、ゆっくりと部屋の中を見回した。
まず、この異常なまでの香。
おそらく、病気の匂いや薬の匂いを消すために、高価な香木を焚いているのだろう。
しかし、弱った胃腸にとって、これほど強烈な匂いは吐き気を催す原因にしかならない。そこへ、バターと肉の濃厚な匂いが混ざり合えば、大人でさえ気分が悪くなる。
次に、多すぎる監視の目。
部屋の中には、毒殺を恐れるあまり、四人の近衛兵と、三人の侍従、そして毒見役が常に控えている。
十二歳の子どもが、こんな無表情な大人たちに四六時中見下ろされ、監視されながら、リラックスして食事ができるわけがない。
そして、並べられた無数の薬瓶と、重すぎる料理。
体が食事を拒絶している時に、無理やり胃袋に詰め込もうとする高カロリーな食事は、暴力と同じだ。
サヨは、誰を責めるわけでもなく、ただ小さく息を吐いた。
「……ミルナー殿。見ただろう」
ガイウスが、吐き気を抑えてぐったりと横たわったルシアンを見下ろしながら、サヨに向かって冷たく言い放った。
「これが現実だ。我々がどれほど手を尽くし、最高の薬と最高の料理を用意しても、殿下は拒絶される。……素人のあなたが、これ以上何を出せるというのだ」
「ええ、そうですわ」
オルガも、サヨを侮蔑の眼差しで睨みつける。
「これだけの料理を出しても駄目なのです。あなたのような田舎女が作った残飯を出したところで、殿下の御身体を汚すだけです。大人しくお帰りなさいな」
二人の権威からの冷たい言葉。
だが、サヨの足はもうすくまなかった。
ベッドの上で、小さな体を丸めて震えているルシアンの姿が、かつて店でうずくまっていたリナやレオンの姿と重なって見えたからだ。
サヨは、エプロンのポケットで組んでいた手を解き、オルガとガイウスに向かって、はっきりと告げた。
「……これでは、食べられるものも食べられません」




