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第6話 王弟殿下は距離を間違えない

「まず、殿下の部屋を見せてください。料理は、その後です」


サヨの静かで、しかしはっきりとした宣言に、控えの間の空気はピンと張り詰めた。


「……なっ、平民の分際で、何を偉そうに!」


最初に沈黙を破ったのは、王宮副料理長おうきゅうふくりょうりちょうのオルガだった。

美しい顔を怒りで歪め、サヨを指差して声を荒らげる。


「殿下のお部屋は、限られた者しか立ち入ることを許されない神聖な場所です! あなたのような素性の知れない田舎女が入っていい場所ではありません。身の程をわきまえなさい!」


「オルガ副料理長の言う通りです」


王宮医師長(おうきゅういしちょう)のガイウスも、冷ややかな声で同調した。


「殿下はただでさえお体が弱っておられる。見知らぬ平民が近づけば、さらなるご負担になりかねない。レオン団長、リナ治癒師長。お二人のご厚意はありがたいが、この者は早急に帰すべきだ」


二人の権威者から浴びせられる、明確な拒絶と見下しの言葉。

かつてのサヨであれば、萎縮してその場にしゃがみ込んでいたかもしれない。

しかし、今のサヨは、水仕事で荒れた両手を前でしっかりと組み、まっすぐに二人を見返していた。


怖いものは怖い。

だが、ここで引けば、あの部屋の奥で食事を拒絶している十二歳の子どもは、ずっと一人きりだ。


「……私は」


サヨが再び口を開こうとした、その時だった。


「——彼女の申し出は、極めて理にかなっていると思うが」


低く、よく通る穏やかな声が、重厚な扉のほうから響いた。


サヨが振り返ると、いつの間にか開かれていた扉の前に、一人の男性が立っていた。

年齢は、サヨと同じ四十代半ばくらいだろうか。

夜空のように深い群青色の豪奢な軍服に身を包み、肩には王族の証であるマントを羽織っている。


少しだけ混じった銀糸が美しい金髪に、知性と深い慈愛を感じさせる碧眼。

背筋は真っ直ぐに伸びており、静かに立っているだけで、周囲の空気を支配するような圧倒的な存在感があった。


「え、エリアス殿下……!」


オルガが息を呑み、慌ててその場に平伏した。

ガイウスも弾かれたように膝をつき、深く首を垂れる。

レオンとリナ、そして周囲を固めていた近衛騎士たちも、一斉に最上級の敬礼をとった。


エリアス・フォン・リュミエール。

国王の弟であり、この国の政務と軍務の要を担う、王弟殿下(おうていでんか)その人だ。


「えっ……と……」


サヨは慌てて状況を察し、自分も見よう見まねで床に膝をつこうとした。

しかし、それより早く、エリアスが長い脚を動かしてサヨの目の前まで歩み寄り、その動きをふわりと制した。


「よいのです、サヨ殿。あなたは私の大切な客だ。どうか顔を上げてください」


穏やかな声とともに、サヨの視界にエリアスの顔が入る。

近くで見ると、その瞳は驚くほど優しく、サヨを一切値踏みするような色を含んでいなかった。


「サヨ殿。遠路はるばる、この窮状を救うために王宮へ足を運んでいただき、心より感謝申し上げます」


王族である彼が、平民であるサヨに向かって、僅かに頭を下げた。

その光景に、床に平伏しているオルガとガイウスが信じられないというように目を見開く。


「で、殿下……! そのような平民の女に、頭を下げられるなど……!」

「オルガ副料理長」


エリアスの声が、一瞬にして冷ややかなものへと変わった。


「彼女は、私が直々に親書を送り、お越しいただいた方だ。それに、先ほどの彼女の言葉のどこに間違いがある? 料理を作る者が、食べる者の環境を知ろうとするのは、至極当然のことだろう」


「っ……し、しかし……」

「ガイウス医師長もだ。殿下の命を救ってくれたことには感謝している。だが、現状、殿下が食事を取れていないのも事実。ならば、別の視点を持つ者の知恵を借りることに、何の不都合がある」


静かだが、決して反論を許さない絶対的な威厳。

先ほどまでサヨを見下していた権威者二人は、冷や汗を流しながら「……申し訳、ありません」と深く頭を垂れることしかできなかった。


サヨは、そのやり取りを呆然と見つめていた。

前世の夫は、自分より立場の弱い者には尊大に振る舞い、強い者には媚びへつらうような人だった。


しかし、目の前にいるこの男性は違う。

彼は絶対的な権力を持っているにもかかわらず、それを弱者を叩くためではなく、道理を通すために使っている。


エリアスは二人から視線を外すと、再びサヨに向き直り、声の温度をふわりと元に戻した。


「不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」

「い、いえ……あ、あの……」


サヨは、何と答えていいか分からず、エプロンの裾をぎゅっと握りしめた。

王弟殿下。雲の上の人。

当然、「今すぐ王太子の元へ行き、料理を作れ」と命令されるのだと思っていた。


しかし、エリアスはサヨの戸惑うような瞳を真っ直ぐに見つめ、信じられないことを口にした。


「親書にも書かせていただきましたが……サヨ殿。もしあなたがこの王宮の空気を重く感じ、ご自身の手に余ると思われたなら、いつでも断っていただいて構いません」

「え……?」

「私は、あなたのお力をお借りしたい。ですが、あなたの意思を無視して、無理強いすることだけは決してしたくないのです」


サヨは息を呑んだ。手紙に書いてあった事は嘘偽りない本音だったのだ。

——無理強いはしない。断ってもいい。


目の前のエリアスは、王国で最も力を持つ一人でありながら、辺境の食堂の女将であるサヨの『選ぶ権利』を、何よりも尊重しようとしてくれている。

相手との距離感を決して間違えない、誠実で大人な対応。


「殿下は……私が、怖くないのですか」


サヨの口から、ふとそんな言葉がこぼれていた。


「怖い、とは?」

「私はただの食堂の女将です。医学の知識もなければ、王宮のマナーも知りません。そんな人間に、大事な王太子殿下の命を預けることが……」


サヨの問いに、エリアスは小さく目を伏せ、そして、どこか懐かしむような、ひどく優しい微笑みを浮かべた。


「ええ、怖くはありません。……私は、あなたの作るスープが、どれほど人の心を温めるものかを知っていますから」


「……え?」


サヨが目を丸くする。

エリアスの言葉は、まるで過去にサヨの料理を食べたことがあるかのような響きを持っていた。

だが、サヨの記憶に、こんなに高貴で美しい男性を店でもてなした覚えはない。


戸惑うサヨを見て、エリアスは少しだけ悪戯っぽく目を細めた。


「私は以前、あなたの店で救われたことがあります。あなたは覚えていないでしょうが」

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