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第5話 王宮の厨房に、食堂女はいらない

王家の紋章が輝く白亜の馬車は、石畳の街道を滑るように進んでいく。

揺れをほとんど感じないその最高級の乗り物の中で、サヨは落ち着かない様子で膝の上の布巾を握りしめていた。


窓の外を流れていく景色は、見慣れた宿場町のくすんだ風景から、洗練された王都の街並みへと劇的に変わっている。

そして今、馬車は王都の中心にそびえ立つ、巨大な城門をくぐろうとしていた。


「先生、顔色が優れませんね。少しお疲れですか?」


向かいの席に座る聖女リナが、心配そうに覗き込んでくる。

サヨは力なく微笑み、ふるふると首を横に振った。


「ううん、馬車酔いとかではないの。ただ……本当に私なんかが、こんな立派な場所に入っていいのかと思って」


王宮。

それは、この国で最も権威と格式が重んじられる場所だ。

平民であるサヨには、一生縁がないと思っていた世界。


窓から見上げる王城は、眩しいほどの白亜の壁と、天を突くような尖塔を持ち、圧倒的な威圧感でサヨを見下ろしているようだった。


「ご心配には及びません。先生は私たちの恩人であり、何よりこの国の未来を救うために来てくださったのですから」


リナの言葉は優しいが、サヨの胸の奥底にある不安は拭いきれない。

前世で、医師である夫に常に自分の居場所と価値を否定され続けた記憶が、冷たい泥のように心の底に沈殿しているからだ。


『正しい知識』と『高い身分』を持つ者たちが支配する空間は、サヨにとって本能的な恐怖の対象だった。


やがて馬車は、王宮の裏手にある関係者用の豪奢なエントランスに到着した。


馬車を降りると、すでに騎士団長のレオンが待機しており、周囲を屈強な近衛騎士たちが固めていた。

先ほどまで灯火食堂の土間で子どものように笑っていた彼は、今はもう完全に『王国最強の武人』の顔になっている。


「サヨさん、こちらへ。まずは王宮の医療と食事を統括する者たちに、あなたを紹介しなければなりません」


レオンの先導で、サヨは王宮の廊下を歩き出した。

磨き上げられた大理石の床。壁を飾る豪奢な絵画。すれ違う使用人たちでさえ、サヨが普段着ている服よりずっと上等なものを身につけている。

サヨが場違いな田舎者であることは、誰の目にも明らかだった。


案内されたのは、王太子が滞在しているという離宮の、広い控えの間だった。

そこにはすでに、二人の人物が待っていた。


一人は、純白の清潔な白衣に身を包んだ、初老の男性。

神経質そうな細い眼鏡の奥の瞳は、知性と、そして明確な不快感に満ちている。

王宮医師長(おうきゅういしちょう)、ガイウス・ヴェルナー。


そしてもう一人は、豪奢な刺繍が施された料理人の制服を着た、三十代半ばの美しい女性だった。

貴族出身であることを隠そうともしない、誇り高く冷ややかな立ち姿。

王宮副料理長おうきゅうふくりょうりちょう、オルガ・ベルトラン。


「レオン団長。それにリナ治癒師長。……お待ちしておりました」


ガイウス医師長が、サヨの姿を一瞥し、まるで路傍の石でも見るような目でため息をついた。


「それで? そちらの……随分とみすぼらしい平民の女性が、お二人がわざわざ辺境まで迎えに行ったという『救世主』ですか?」


棘のある言葉に、レオンの眉間がピクリと動く。


「言葉を慎まれよ、ガイウス医師長。彼女はサヨ・ミルナー殿。我々が全幅の信頼を置く、素晴らしい料理人だ」

「料理人?」


鼻で笑ったのは、副料理長のオルガだった。

彼女は、サヨの荒れた手先や、質素な服を値踏みするように見つめ、露骨に顔をしかめた。


「冗談はおやめください、レオン団長。王宮の厨房に、街道沿いの田舎食堂の女を入れるなど……。王室への侮辱にもほどがあります」


オルガの冷たい声が、控えの間に響く。


「殿下のお食事は、我が国の最高峰の食材を使い、一流の料理人たちが心血を注いで作っているのです。どこぞの平民が作る薄汚れた残飯など、殿下の口に入る前に処分させていただきますよ」


「……貴様」


レオンが低い声で唸り、腰の剣に手をかけようとした。

リナもまた、瑠璃色の瞳に静かな怒りを宿し、前に出ようとする。


だが、サヨはその二人の背中を、そっと手で制した。


(……ああ、やっぱり、こういう場所なのね)


サヨの耳の奥で、昔の記憶が蘇る。


『君はもう現場の人間じゃない。専業主婦でいられるんだから感謝しろ』

『医者でもないのに、偉そうに口出しをするな』


医師という権威を持っていた前世の夫の、冷たい声。

ガイウス医師長とオルガ副料理長の放つ空気は、あの頃の夫のそれと全く同じだった。

自分の持つ『正しい知識』と『地位』を絶対の善とし、それを持たない者を徹底的に見下す、冷酷なまでの傲慢さ。


足がすくみそうになる。

胃の奥が冷たく重くなり、今すぐこの場から逃げ出してしまいたかった。

私なんて、ただの食堂の女将なのだから。偉い人たちの前で、口答えなんてできるはずがない。


サヨがぎゅっと目を閉じ、俯きかけた——その時。


脳裏に浮かんだのは、灯火食堂の片隅で、熱を出してうずくまっていた小さなリナの姿だった。

腐った残飯を握りしめて泣いていたレオンの姿だった。


今、あの重い扉の向こうで苦しんでいるのは、十二歳の子どもなのだ。

大人たちの都合や、毒殺の恐怖に怯え、たった一人で飢えと戦っている、小さな男の子。


——偉い人たちがどうであれ、食べる人が泣いているなら、私がやるべきことは一つしかない。


「……ミルナー殿。聞こえていますか? あなたのような素人が出しゃばる幕は、この王宮にはないのです。早々にお引き取りを」


ガイウス医師長が冷たく言い放つ。


サヨは、ゆっくりと顔を上げた。

もう、俯いてはいなかった。

その目は、前世の夫に怯えていた小鳥のような目ではなく、十七年間、自分の店で客の命のそばに立ち続けてきた『職業人』の目だった。


サヨは、無意識のうちにエプロンの紐をきゅっと締め直す仕草をした。


「……素晴らしいお料理も、完璧な治療も、結構なことだと思います」


静かな、けれど通る声だった。

ガイウスとオルガが、思いがけない反論にわずかに目を見張る。


「ですが、殿下は今、それを受け付けられない状態なのでしょう? 料理は、食べる人が口にして初めて『食事』になります。食べられないのなら、それはただの綺麗な飾りです」


「なっ……! 田舎女が、王宮料理を侮辱する気ですか!」


激昂するオルガを真っ直ぐに見据え、サヨは一歩前に出た。

怖い。けれど、ここで引いてはいけないことくらい、分かっていた。


「侮辱などしていません。ただ、事実を申し上げているだけです」


サヨは、ふうっと小さく息を吐いた。

そして、自分を見下ろす王宮の権威たちに向かって、はっきりと告げた。


「まず、殿下の部屋を見せてください。料理は、その後です」

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