第4話 常連たちが偉くなりすぎている
王弟エリアス殿下からの、あまりにも丁寧で、こちらの意思を尊重する親書。
それを握りしめたまま、サヨは呆然と立ち尽くしていた。
「サヨさん。どうか、俺たちと一緒に王宮へ来てください」
土間に片膝をついたままの騎士団長レオンが、懇願するように見上げてくる。
その後ろでは、聖女の白い法衣をまとったリナが、祈るように両手で組んでいた。
王宮。
この国の中枢であり、最も権威と格式が重んじられる場所。
前世の夫のような、「正しい知識」と「高い身分」を持つ者たちが支配する世界だ。
そんな場所に、しがない辺境の食堂の女将が行って、一体何ができるというのか。
サヨが躊躇いから小さく息を吐き出そうとした、その時だった。
「おや、レオン。君がそんなに急かすから、サヨさんが困っているじゃないか」
開け放たれた入り口から、涼やかな、けれどどこか背筋の凍るような冷たさを孕んだ声が響いた。
カツ、カツと整った足音を立てて入ってきたのは、銀縁の眼鏡をかけた細身の青年だった。
仕立ての良い上質な文官の服に身を包み、口元には完璧な笑みを浮かべている。
「……ユリウス?」
サヨの口から、自然とその名前がこぼれた。
かつて、実家である貴族家で冷遇され、常に酷い胃痛を抱えていた少年。サヨが消化に良い粥を作り、気を紛らわせるために店の帳簿づけを教えた、あのユリウスだ。
「お久しぶりです、サヨさん。今は宰相補佐を務めております。サヨさんに教えていただいた帳簿の知識、王国の財政管理に大いに役立っていますよ」
「さ、宰相補佐……」
笑顔で恐ろしい役職を告げる青年に、サヨは眩暈を覚えた。
しかし、驚きはそれで終わらなかった。
「……サヨさん」
ユリウスの背後から、音もなく、ゆらりと現れた影があった。
長く伸びた前髪の間から覗く、無表情な瞳。漆黒のローブを引きずるようにして歩くその青年は、なぜか大事そうに両手で『古びたクッキー缶』を抱えていた。
「ノア。あなたまでこんな所まで来て……まさかあなたも」
「はい。魔術師団長になりました。……サヨさんのカモミールティーと、このクッキー缶のおかげです」
ぼそぼそと呟く魔術師団長。
魔力が暴走する恐怖から、いつも店の隅で膝を抱えていた彼に、サヨが落ち着くハーブティーと甘い焼き菓子を出していたのは、ほんの十日ほど前のことのようだ。
「ちょっとちょっと、男連中ばっかりでサヨさんを囲まないでちょうだい!」
さらに響き渡ったのは、華やかで快活な女性の声だった。
豪奢なドレスに身を包み、宝石を散りばめた扇を手にした絶世の美女が、呆れたようにため息をつきながら店に入ってくる。
「ミラちゃん……よね?」
「ええ! お久しぶりです、女将さん。今は『ロッソ商会』の大商会長をやらせてもらっています。ほら、これお土産! 南の島から取り寄せた最高級の香辛料と、幻の魔獣肉よ!」
ドンッ、と土間に置かれたのは、目玉が飛び出るような金額の高級食材が入った木箱だった。
移民の娘で、毎日ひび割れた手で皿洗いを手伝っていたミラ。彼女には、食材の原価計算と、長持ちさせる保存方法を徹底的に教え込んだ記憶がある。
「ミラちゃん……気持ちは嬉しいけれど、うちみたいな大衆食堂にこんな高級食材を持ち込んでも、誰も頼めないわよ。無駄遣いしちゃ駄目って教えたでしょう」
「あはは、相変わらずですね、女将さんは」
サヨが思わず昔と同じように小言を言うと、ミラは嬉しそうに笑った。
聖女。騎士団長。宰相補佐。魔術師団長。大商会長。
灯火食堂の狭い土間に、王国を動かすトップたちが勢揃いしている。
「……私の店は、いつから王立の士官学校になったのかしら」
サヨが額を押さえて呟くと、五人の元常連たちは、顔を見合わせてふふっと笑った。
「サヨさんのスープが、俺たちを育ててくれたんです」
レオンが真剣な顔でそう言った。
他の四人も、深く頷いている。
彼らが立派になったのは嬉しい。十七年間、この小さな厨房で懸命にご飯を作ってきたことは、決して無駄ではなかったのだと、胸が熱くなる。
しかし、だからといって王宮へ行くことへの恐怖が消えるわけではなかった。
「……王太子殿下が、毒殺未遂に遭われたのよね」
「はい。命は取り留め、毒も完全に抜け切っています。ですが、それ以来、殿下は一切の食事を受け付けなくなってしまいました」
リナが悲痛な面持ちで答える。
「王宮の料理人が腕によりをかけた豪奢な料理も、薬草を煎じた汁も、一口含んだだけで吐き戻してしまわれるのです。……今は私の治癒魔法で無理やり体力を維持させていますが、魔法では栄養は補えても、『生きる気力』までは生み出せません。このままでは……」
その状態がどれほど危険か、元看護師であるサヨには痛いほどよくわかった。
胃腸が食事を拒絶している状態の患者に、治癒魔法という『外からの力』だけで負荷をかけ続ければ、いずれ体と心のバランスが崩壊する。
食べなければ、人は生きられない。
それは単なる栄養学の話ではなく、食事という行為そのものが持つ、安心や生活のリズムが失われるということだ。
「……王太子殿下は、おいくつなの?」
サヨは、震えそうになる声を抑えて尋ねた。
「十二歳になられます」
リナの答えに、サヨは息を呑んだ。
十二歳。
かつて、レオンが腐った残飯を漁り、ノアが魔力に怯えて泣きじゃくっていたのと同じ年ごろ。
そんな小さな子どもが、暗殺の恐怖に怯え、大人たちが差し出す食事を「毒が入っているかもしれない」と怯えながら拒絶している。
王宮という巨大な鳥籠の中で、偉大な医師や優秀な料理人に囲まれながら、誰にも心を開けず、一人ぼっちで飢えと戦っている。
——可哀想に。
サヨの心の中で、本能とも言える感情が弾けた。
前世の夫の冷たい視線や、王宮という権威ある場所への恐怖。それらが、十二歳の子どもが一人で泣いているという現実の前に、ふっと薄れていくのを感じた。
私は、あの時、レオンの手から腐った食べ物を叩き落とした。
ノアの背中をさすって、温かいお茶を飲ませた。
偉い人たちがどうであれ、目の前に食べられない子どもがいるのなら、やるべきことは一つしかない。
「……行くわ」
サヨは、水仕事で節の太くなった自分の両手を見つめ、静かに、けれどはっきりと告げた。
「え……先生?」
「サヨさん!」
顔を輝かせるリナやレオンたちを制するように、サヨはまっすぐ彼らを見据えた。
「ただし、勘違いしないでね。私はただの食堂の女将よ。魔法を使って奇跡を起こすこともできないし、王宮で出されるような豪華な料理なんて作れないわ」
サヨは、エプロンの紐をきゅっと締め直した。
いつもの、仕事に向かう前の儀式だ。
「診察はできません。薬も出せません。
それでもいいなら、台所を貸してください」
十七年間、客の顔色を見つめ、温かいご飯を作ることだけを誇りにしてきた女将の宣言に、王国の要人となった五人の子どもたちは、誇らしげに深く首を垂れた。




