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第3話 騎士団長は土間に膝をつく

「王弟殿下が、私に……?」


サヨの震える声が、静まり返った食堂に響いた。


王太子ルシアン殿下の窮地だけでも頭が真っ白になりそうなのに、さらに王弟エリアス殿下の名前まで飛び出し、サヨは完全に混乱していた。


王弟殿下といえば、現国王の弟君であり、国政の要を担う傑物として、この辺境の宿場町にまでその名が轟いている人物だ。

そんな雲の上の存在が、かつて自分の店に立ち寄り、救われたと言っている?


「リナちゃん……ごめんなさい、私、本当に心当たりがなくて……」

「無理もありません。殿下は当時、身分を隠しておいででしたから」


リナはサヨを安心させるように、優しく微笑んだ。

しかし、サヨの戸惑いは消えない。王宮の権力争いなど、平民である自分にはまったく縁のない世界だ。関われば、どうなるか分からないという本能的な恐れがあった。


サヨが一歩後ずさろうとした、その時だった。


店の外で待機していた銀鎧の騎士たちの中から、一際大柄な男が前に進み出た。

身長は優に二メートル近くあるだろうか。分厚い胸板と、歴戦の猛者であることを窺わせる鋭い眼光。腰には身の丈ほどもある大剣を提げている。

歩くたびに、ガチャリ、ガチャリと重厚な金属音が響いた。


その巨漢の騎士が、灯火食堂の入り口に立った。

入り口の木枠に頭がぶつかりそうなほどの威圧感に、サヨは思わず息を呑み、肩をこわばらせた。

前世で、機嫌の悪い夫に怒鳴りつけられる直前の、あの冷たい恐怖がふっと蘇る。権威を纏った大柄な男は、サヨにとって本能的な恐怖の対象だった。


男は兜を脱ぎ、脇に抱えた。

日に焼けた精悍な顔立ちに、短い金髪。右頬には、過去の激しい戦いを思わせる古い傷跡がある。

鋭い金色の瞳が、サヨを真っ直ぐに見下ろした。


「……」


何を言われるのか。不敬だと怒鳴られるのか。

サヨがぎゅっと目をつぶろうとした、次の瞬間。


——ガシャンッ!


大きな金属音が、食堂の土間(どま)に響き渡った。


「え……?」


サヨが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。

威圧感の塊だったはずの巨漢の騎士が、土埃のついた食堂の土間に、片膝をついて深く首を垂れていたのだ。

騎士としての最上級の敬礼。それを、ただの食堂の女将に対して行っている。


「お久しぶりです……サヨさん」


低く、けれどどこか震えるような声。

サヨはその声と、日に焼けた顔の奥にある面影に、はっと息を呑んだ。


「……もしかして、レオン?」

「はい! サヨさんの店で、皿洗いをしていたレオンです!」


顔を上げた男は、先ほどの鋭い眼光が嘘のように、まるで飼い主に褒められた大型犬のような、人懐っこい笑顔を浮かべていた。


サヨの脳裏に、またしても十七年前の記憶がフラッシュバックする。

——開店して間もない、まだ客足もまばらだった冬の日のこと。

店の裏口で、廃棄しようとしていた野菜のくずや、腐りかけた残飯を必死に漁っている、痩せこけた野良犬のような少年がいた。


見つけたサヨは、彼の手から腐った食べ物を叩き落とし、ひどく叱りつけた。


『盗むなとは言わない。でも、腐ったものを食べて死ぬのは絶対に許さない。中に入って皿を洗いなさい。働いた分は、ちゃんと温かいご飯を食べさせるから』


そう言って、泥だらけの彼を厨房に入れ、石鹸で手を洗わせた。

最初は警戒して牙を剥いていた少年も、サヨの作る山盛りの肉入りスープと黒パンを前にして、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら掻き込んでいた。


「レオン……こんなに大きくなって……それに、その立派な鎧」

「ええ。今は、王国騎士団長おうこくきしだんちょうを拝命しております」


「き、騎士団長!?」


サヨは目を丸くした。聖女に続き、今度は王国最強の武力組織のトップだ。

あの、スープの入った鍋を抱え込んで離さなかった食いしん坊の少年が。


「こら、レオン。急に大きな音を立てて入ってくるから、先生が怯えてしまったじゃない」

「す、すみません! サヨさんの顔を見たら、つい感極まってしまって……」


リナにたしなめられ、巨漢の騎士団長がシュンと肩を落とす。

そのやり取りは、まるで昔、食堂の片隅で子どもたちがじゃれ合っていた光景そのままで、サヨの口から自然と安堵の吐息がこぼれた。


「ふふっ……二人とも、本当に立派になって。でも、中身はあの頃のままなのね」


サヨが微笑むと、レオンは嬉しそうに顔をほころばせた。

しかし、すぐに表情を引き締め、再び騎士団長の顔に戻る。


「サヨさん。俺たちは、王太子殿下を……そしてこの国を救うために、あなたを王宮へお迎えに上がりました」

「レオン……」

「ですが、その前に。これをお渡ししなければなりません」


レオンは懐から、一通の手紙を取り出した。

真っ白な封筒には、王家の紋章である『交差する剣と獅子』の意匠が、赤い蝋で厳重に封印されている。


「これは?」

「王弟、エリアス殿下からの親書です」


サヨは少し躊躇いながら、その手紙を受け取った。

王族からの手紙。平民である自分が、こんなものを直接受け取ってよいのだろうか。

震える指先で封を開け、中の便箋を取り出す。


そこには、流麗で力強い、けれどどこか温かみを感じる文字が並んでいた。


『突然の無礼な願い立てを、どうかお許しいただきたい。

王宮の窮地を救うため、貴女の力を貸してほしい。

だが——』


サヨの視線が、次の一文でぴたりと止まった。


『もし貴方が来ることを望まぬなら、決して無理強いはいたしません』


サヨは、思わず息を吐き出した。

王族からの依頼だ。本来なら「絶対の命令」として下されるのが当たり前のはず。

それを、わざわざ親書という形で「無理強いはしない」と念を押している。


前世の夫は、サヨの意思を尋ねることなど一度もなかった。

『君はこうすべきだ』『俺の言う通りにしていればいい』。

常に上から指示を下し、サヨの選択肢を奪い続けてきた。


けれど、この手紙の主は違う。

絶対的な権力を持っているはずなのに、辺境の小さな食堂の女将であるサヨの『選ぶ権利』を、何よりも尊重しようとしてくれている。


「……王弟、殿下」


その一文を見た時、サヨは初めて、まだ会ったことのない王弟殿下に少しだけ興味を抱いた。

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