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第2話 病弱だった少女は聖女になっていた

王家の紋章が刻まれた白亜の大型馬車。

それが、しがない宿場町の、しかも大衆向けの食堂である『灯火食堂(ともしびしょくどう)』の前に止まっているという事実は、あまりにも現実離れしていた。


サヨは固まったまま、ゆっくりと開く馬車の扉を凝視した。


何か、この土地の権利関係で問題でも起きたのだろうか。

それとも、先日出した鹿肉の煮込みが、お忍びで来ていた貴族の口に合わなくて不敬罪にでも問われたのだろうか。

様々な最悪の想像がサヨの頭を駆け巡る。


しかし、重厚な扉の向こうから現れたのは、恐ろしい査察官でも、冷酷な近衛兵でもなかった。


降り立ったのは、一人の若い女性だった。

年齢は二十代半ばだろうか。透き通るような銀糸の髪をふわりと結い上げ、金糸の刺繍が施された純白の法衣に身を包んでいる。

どこか人間離れした、神聖な美しさを持つその女性が地面に降り立つと、周囲を固めていた銀鎧の騎士たちが一斉に姿勢を正した。


高位の聖職者。

サヨの目にはそう映った。


ただ事ではない。

サヨがエプロンの裾を握りしめ、どう挨拶すべきか迷っていると——。


白衣の女性は、店の入り口から顔を出しているサヨの姿を認めた瞬間、はっと息を呑んだ。

そして、周囲の騎士たちが止める間もなく、小走りでサヨの元へと駆け寄ってきたのだ。


「あ……」


女性は、サヨの目の前でぴたりと足を止めた。

その美しい瑠璃色の瞳には、なぜか大粒の涙が浮かんでいる。


「……先生」


震える声で、女性はそう呼んだ。


「え?」


サヨは目を丸くした。

先生。

その呼び方に、サヨは心当たりがあった。だが、目の前にいるこの高貴な女性と、記憶の中の人物がどうしても結びつかない。


「あの……どちら様、でしょうか。人違いでは……」


おずおずと尋ねるサヨに、女性はふるふると首を横に振った。


「忘れてしまっても、無理はありません。でも、私は一日たりとも忘れたことはありませんでした。……リナです。昔、いつもお店の隅で、お湯ばかり飲んでいた……リナです」


「リナ……?」


その名前を聞いた瞬間、サヨの脳裏に、十七年前の記憶が鮮明に蘇った。


——開店して間もない頃。

いつもボロボロの服を着て、店の片隅でうずくまっていた小さな少女がいた。

彼女は生まれつき魔力が強すぎたせいで、自身の体がその力に耐えきれず、常に熱を出して衰弱していた。


当時のリナは、固い黒パンも、塩気の強い肉も受け付けなかった。

だからサヨは、彼女が来るたびに、胃を温めるための白湯を出し、消化に良い野菜の端材をくたくたに煮込んだ薄味のスープを飲ませた。


『ごめんなさい……私、お金がないから、お薬が買えなくて……』

『お金のことは気にしないで。それに急いで元気にならなくていい。ただ、体だけは冷やさないようにね』


サヨは魔法で彼女の病を治すことはできなかった。

けれど、体を拭き、清潔な布を掛け、少し元気な日には「自分が役に立っている」という自信を持たせるために、野菜の泥落としを手伝わせたりした。


「……あの、よく野菜を洗ってくれたリナちゃん?」


サヨの声に、リナと呼ばれた女性は、こらえきれずに涙をこぼしながら何度も頷いた。


「はい。そうです、先生。あの頃、私が生きてこられたのは、先生が明日の朝食を約束してくれたからです。いつか恩返しがしたくて……ずっと、先生を探していました」


サヨは信じられない思いで、目の前の立派な女性を見つめた。

あの、いつ消えてもおかしくないほど儚かった少女が、こんなにも美しく、力強く成長しているなんて。


「よかった。本当に、立派になって……」


サヨの目にも、自然と涙が滲んだ。

荒れた手でリナの肩にそっと触れると、リナはその手に自分の頬をすり寄せるようにして泣き崩れた。


感動的な再会だった。

だが、サヨはすぐに冷静さを取り戻した。

彼女が立派になったのは嬉しいが、なぜ王家の馬車に乗り、騎士を引き連れているのか。


「リナちゃん……いえ、リナさん。あなた、今はどこで何を?」


「あ、ごめんなさい」


リナは目元をハンカチで拭うと、背筋を伸ばし、わずかに恥じらうように微笑んだ。


「今は王都で、聖女庁(せいじょちょう)の治癒師長を任されています。人々からは、一応『聖女』などと呼ばれておりまして……」


「せ、聖女様!?」


サヨは思わず素っ頓狂な声を上げた。

聖女といえば、この国で最高位の治癒魔法の使い手だ。王族や高位貴族の治療を担う、雲の上の存在である。


「そんな、すごい出世じゃない! 私なんかが気安く触ってしまってごめんなさいね」


「とんでもありません! 先生の前では、私はずっと、あの頃のままのリナです」


リナは慌ててサヨの手を握り返した。

その手は、昔の氷のように冷たかった手とは違い、しっかりと温かい血が通っていた。


「でも、先生。今日は、ただの恩返しのために来たのではありません」


不意に、リナの表情が真剣なものへと変わった。

聖女としての、仕事の顔だ。サヨも自然と姿勢を正す。


「実は……王宮で、どうしても先生のお力をお借りしたい事態が起きているのです」

「私の、力? 人違いじゃないかしら。私はただの食堂の女将よ。魔法も使えないし、王宮で出せるような立派な料理も作れないわ」


「いいえ。先生の『食べる人を見る』料理が必要なんです」


リナは切実な声で訴えた。


「十二歳になられる王太子(おうたいし)、ルシアン殿下のことです。殿下は数ヶ月前、毒殺未遂に遭われました」

「毒殺未遂……!」

「はい。命は取り留めました。私を含め、王宮の治癒師たちが総出で解毒を行い、体から毒は完全に抜け切っています。……ですが、殿下はそれ以来、一切の食事を受け付けなくなってしまったのです」


サヨの表情が険しくなる。


「最高級の食材も、一流の料理人が作る料理も、一口食べただけで吐き出してしまう。治癒魔法で無理やり体力を維持させていますが、魔力過多も重なって、お体は限界に近づいています。魔法では、栄養を補えても、『食べたい』という気力までは治せないのです」


痛いほどわかる話だった。

前世の病院でも、病気が治っても、様々な要因から食欲を失い、そのまま衰弱していく患者を何度も見てきた。

食事は、ただ栄養を摂取するだけの行為ではない。安心と、生きる活力の源なのだ。


「……だから、私に食事を作れと?」


「はい。王宮の食事は、どれも形式張っていて、今の殿下には重すぎるのです。私は先生が作ってくださったような、優しくて、体にすっと馴染むスープが必要だと進言しました」


リナの目は真剣だった。

しかし、サヨは躊躇した。


王宮。

それは、権力と格式の渦巻く場所だ。

かつて、医師という肩書きを持つ夫に軽んじられ、息を潜めて生きていた前世の記憶が、サヨの足に重い鎖をかける。

偉い人たちの前で、自分のような知識のない人間が何かをすることへの本能的な恐怖があった。


「リナちゃん……ごめんなさい。私には、とてもそんな大役は……」


サヨが一歩引こうとした、その時だった。


「……先生」


リナが、祈るように両手を胸の前で組んだ。


「王弟、エリアス殿下も……先生に、お会いしたいと仰っています」


「……えっ?」


サヨは息を呑んだ。

王太子に続き、今度は王弟殿下。

王国の要とも言える人物の名前が、なぜ自分のような辺境の食堂の女将に向けられるのか。


「王弟殿下が、私に……?」


「はい。殿下は……かつてこの『灯火食堂』で、先生に救われたお一人なのだと、そう仰っていました」


リナの言葉が、冷たい風に乗ってサヨの耳に届く。


——王弟殿下も、サヨさんにお会いしたいと仰っています。


信じられない言葉に、サヨはただ、立ち尽くすことしかできなかった。

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