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第1話 灯火食堂の十七年目

トントン、トントン、と小気味よい包丁の音が、まだ薄暗い厨房に響く。


鍋の中では、細かく刻まれた根菜と、下処理を済ませた骨付き肉がゆっくりと踊っていた。

灰汁を丁寧にすくい取り、火加減を調節する。

味付けの塩は、ほんの少しだけ。

その代わり、体を温める作用のある生姜に似た根をすりおろし、胃に優しい数種類のハーブを束ねて放り込む。


ふわりと、湯気とともに食欲をそそる温かな香りが厨房いっぱいに広がった。


「よし、今日もいい香り」


四十代半ばになる女将のサヨ・ミルナーは、真っ白なエプロンをきゅっと締め直し、満足げに頷いた。

若くはないが、背筋がすっと伸びた、穏やかな面差しの女性だ。

手際よく布巾で調理台を拭き上げると、開店の準備を整える。


ここは王都から馬車で半日ほど離れた宿場町、リーベル。

王都へと続く大きな街道沿いにあり、商業区と貧民街のちょうど境目に位置するこの場所は、常に様々な人々が行き交っている。

見習い職人、日雇いの労働者、長旅の商人、流れの傭兵、そして孤児たち。

決して裕福とは言えない、けれど日々を懸命に生きる人々のための小さな食堂兼宿屋。


それが、サヨの営む『灯火食堂(ともしびしょくどう)』だった。


カラン、と入り口のベルが鳴り、冷たい朝の空気とともに最初の客がなだれ込んでくる。


「女将さん、おはよう! 今日も寒いな、いつものやつ頼むよ」

「おはよう。少し待っててね」


ドカドカと席についたのは、馴染みの日雇い労働者たちだ。

サヨは彼らの顔をちらりと見て、すぐさま厨房に戻る。

そして、先ほど煮込んでいたスープに、少しだけ香辛料を追加し、黒パンと一緒に木盆に乗せて運んだ。


「はい、お待たせ。今日は少し冷えるから、体を温めるスパイスを多めにしておいたわ。しっかり食べて、怪我しないようにね」

「うおお、助かる! 女将さんのスープを飲むと、一日中体がポカポカするんだよな」


湯気を立てるスープを一気に掻き込もうとする若い男に、サヨはそっと手を出した。


「ほら、熱いから。急いで食べなくていいのよ。ちゃんと噛んで、ゆっくり飲み込みなさい」

「むぐっ……わ、わかったよぉ」


まるで母親にたしなめられた子どものように、大柄な男が素直にスプーンの速度を落とす。

その様子を見て、サヨはふふっと微笑んだ。


サヨがこの世界で目覚め、この食堂を開いてから、すでに十七年の月日が流れていた。


前世の彼女——佐倉紗代(さくらさよ)は、地球の、とある大病院で働く看護師だった。

天才的な技術があったわけではない。

ただ、患者の顔色、食欲の有無、睡眠の浅さ、痛みのサイン、そして家族関係の小さな変化に気づくのが、少しだけ得意だった。


しかし、医師であった夫と結婚し、家庭に入ってからは、そのすべてを失っていった。


『看護師なんて、医師の指示がなければ何もできないだろう』

『君はもう現場の人間じゃない。専業主婦でいられるんだから感謝しろ』

『医者でもないのに、偉そうに口出しをするな』


夫の言葉は、少しずつ、けれど確実にサヨの誇りと自信を削り取っていった。

自分の価値がわからなくなり、すべてを終わらせようと決別を告げたあの日に——サヨは命を落とし、この魔法と魔物のいる異世界へと転生したのだ。


二度目の人生。

もう、誰かに自分の価値を決められたくはなかった。

誰かの人生の一部として、自分をすり減らすような生き方はしたくなかった。


だからサヨは、この宿場町で小さな食堂を開いた。

魔法を使って大怪我を治せるわけでもない。画期的な新薬を作れるわけでもない。

私にできるのは、温かいスープを作り、柔らかいパンを焼き、相手の体調に合わせた食事を出すことだけ。


手を洗いなさい。

急いで食べなくていい。

今日はもう、ゆっくり休みなさい。


たったそれだけの、小さな小さなケア。

けれど、十七年間そうやって客の顔色を見つめ、厨房に立ち続けてきたこの灯火食堂こそが、今のサヨにとって唯一の居場所であり、お城だった。


「女将さん、ごちそうさま! 今日も美味かった!」

「ええ、いってらっしゃい。気をつけてね」


昼のピークを過ぎ、嵐のように押し寄せていた客たちが引いていく。

サヨは布巾を手に取り、客がこぼしたスープの跡を丁寧に拭き上げていった。


水仕事と火の扱いで、かつては白かった手もすっかり荒れて、節が太くなっている。

けれど、サヨはこの手が好きだった。

この手で十七年間、たくさんの人たちに温かいご飯を作ってきたのだという、小さな誇りがあったからだ。


「さて、夜の仕込みをしてしまおうかしら」


サヨがそう独り言を呟きながら、厨房へ戻ろうとしたときだった。


ふと、店の外の通りが、異様なほど静まり返っていることに気がついた。

いつもなら、行商人の怒声や子どもたちの笑い声、荷馬車の車輪の音が絶え間なく響いているはずの街道。

それが、水を打ったように静かになっている。


代わりに聞こえてきたのは、規則正しく、そして優雅な馬の蹄の音だった。

カポ、カポ、カポ……。


土埃の舞うこの宿場町には到底似つかわしくない、洗練された響き。

蹄の音は、ゆっくりと近づき——あろうことか、灯火食堂の目の前でぴたりと止まった。


「……?」


訝しげに思ったサヨは、エプロンで手を拭きながら、店の入り口の扉を少しだけ開けた。


そこにあった光景に、サヨは息を呑んだ。


店の前に止まっていたのは、見上げるほどに立派な、白亜の大型馬車だった。

御者台には、銀色の甲冑に身を包んだ、見るからに只者ではない騎士たちが座っている。

そして何より、サヨの目を釘付けにしたのは、陽光を反射して燦然と輝く、馬車の扉の装飾だった。


交差する二振りの剣と、羽ばたく獅子の意匠。

それは、ただの食堂の女将であるサヨでさえ知っている紋章だった。


——王家の紋章。


場違いなほど立派な王家の馬車が、なぜ、このしがない辺境の宿場町の、小さな食堂の前に止まっているのか。


呆然と立ち尽くすサヨの目の前で、紋章の刻まれた重厚な扉が、ゆっくりと開こうとしていた。

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