第47話 まだ銀の皿は怖いけれど。王太子の帰還と、王宮を震わせた小さな感謝
「王太子殿下、御帰還!」
近衛兵のよく通る声が、高く聳え立つ王宮の広間に響き渡った。
長い間「離宮での静養」、そして一部では「すでに身罷られたのではないか」という暗い噂すら囁かれていた王太子ルシアン。彼が今、確かな足取りで玉座の間へと続く赤い絨毯を踏みしめている。その顔色はまだ抜けるように白いが、瞳にはかつてないほどの静かな光が宿っていた。ルカとしての生活で培った、ささやかで確かな命の火だ。
玉座の前に進み出たルシアンを待っていたのは、国の威信を象徴する玉座ではなく、それを降りて駆け寄ってきた二人の姿だった。
「ルシアン……!」
豪奢なドレスを纏った王妃が、涙で顔をくしゃくしゃにしてルシアンをきつく抱きしめた。その後ろでは、威厳ある国王が目元を赤くして立ち尽くしている。
「父上、母上。ご心配をおかけいたしました。……ただいま戻りました」
かつて、戸口越しにしか声を聞けなかったあの日々。暗殺の恐怖と毒の疑心暗鬼に苛まれ、誰も信じられずに自室に引きこもっていた頃、両親の「これは我が子だ」という切実な愛と権威は、守るための盾として伏せられていた。しかし今、多くの貴族や家臣が見守る公の場で、国王は力強く宣言した。
「よくぞ、よくぞ生きて戻った。誇り高き我が息子、ルシアンよ!」
それは政治的な切り札としてではなく、我が子の無事を喜ぶ一人の父親としての、純粋な感情の決着だった。ルシアンの肩を抱く国王の手は、微かに震えていた。
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その日の夜、王太子帰還を祝う晩餐会が開かれた。
長いテーブルには、まばゆいばかりに磨き上げられた純銀の皿やカトラリーが並び、王宮の料理人が腕によりをかけた豪奢な料理が次々と運ばれてくる。
かつてのルシアンなら、この光景を見るだけで胃が痙攣し、銀の輝きに毒の影を見ては息を詰まらせていただろう。大勢の視線が交差する食卓は、彼にとって恐怖の対象以外の何物でもなかった。
今も、決して平気なわけではない。胸の奥がざわつき、手のひらにはじっとりと汗が滲む。
しかし、今の彼には「言葉」があった。
「申し訳ありません、父上、母上」
ルシアンは静かに、けれどはっきりと通る声で言った。
「私はまだ、大勢での食事には慣れません。それに……この銀の皿はどうしても、まだ苦手なのです」
ざわめきが起こりかけた食卓を、国王が片手で制した。
「怖いのです。でも、食事の温かさは知りました」
ルシアンはそう言うと、豪奢な銀の皿をそっと脇へ除け、自身の従者に頷きかけた。従者が恭しく運んできたのは、王宮には不釣り合いな、素朴で使い込まれた「木の椀」と「木のスプーン」だった。
「これなら、安心して食べられるのです。今日は少しだけ頂いて、あとは自室で休ませていただいてもよろしいでしょうか」
「……あぁ、もちろんだ。お前のペースで構わない。ゆっくりと治していけばいい」
王妃が優しく微笑み、国王も深く頷いた。
「休みたい」「怖い」と正直に口にできること。自分の使う食器を自分で選べること。そして、休むことが許容されること。完全な回復には程遠い。それでも、これはルシアンにとって途方もなく大きな一歩だった。
温かいスープを木のスプーンですくい、口に運ぶ。
舌に広がる優しい塩味に、ふと、あの小さな食堂の湯気と匂いが脳裏を過った。
「……美味しい」
ルシアンのその小さな呟きに、広間の空気がピタリと止まった。
彼は顔を上げ、壁際に控えていた王宮正料理長のバルテルと、副料理長のオルガへ真っ直ぐに視線を向けた。
「バルテル。私のわがままに合わせて、胃に負担をかけない優しい味付けにしてくれて、ありがとう。そして、オルガ」
名指しされたオルガは、ビクッと肩を震わせた。
「王宮の最高峰を自負するお前にとって、このような木の椀で簡素な食事を出すことは屈辱だったかもしれない。だが、今の私には……この温かさと優しさが、何よりの御馳走なのだ。嫌な顔一つせず、これを用意してくれて助かった」
その言葉に、オルガは雷に打たれたように目を見開いた。
(『料理は、食べる人のためにあるものですから』)
かつて、自分が見下し、鼻で笑ったあの平民の女——サヨの言葉が脳裏に蘇る。
最高級の食材も、強烈な香辛料も、王宮の格式も、殿下を救うことはできなかった。死の淵にいた殿下の凍りついた心を溶かし、再び生きる気力と笑顔を与えたのは、彼女が作ったあの泥水のような、けれど徹底的に「食べる人」に寄り添った料理だったのだ。
自分がどれほど浅はかなプライドにしがみつき、料理の本質を見失っていたか。そして、あの田舎女がどれほど底知れない凄みを持っていたか。
「あぁ……っ」
己の完全なる敗北を悟り、オルガはその場にガクンと膝をついた。両手で顔を覆い、ポロポロと涙を零しながら、床にすり伏すように深々と頭を下げる。バルテルもまた、彼女の隣で静かに、しかし誇り高き職人として深い敬意を込めて一礼していた。
さらにルシアンは、その奥で呆然と立ち尽くす医師長ガイウスの方を向いた。
「医師長ガイウス。私が心を閉ざしていた時も、見捨てずに診続けてくれて感謝している。……あなたのおかげで、私はまた、こうして食事の席に着くことができた」
かつて、病名ばかりを見て患者の心を見ていなかったと悔やんだガイウスの目から、堰を切ったように涙が零れ落ちた。彼は震える手で目元を覆い、何度も、何度も深く頷いた。
王宮の暮らしが始まっても、心がすり減りそうになったら、いつでもあの場所を思い出せばいい。
(また、食べに行きます。……ルカとして)
灯火食堂は、彼にとって「逃げ場」ではなく、いつでも帰ることのできる温かい「居場所」として、確かに心の中に在り続けていた。




