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第46話 王子ではない子は、好きだからこそ行くと決めた

王都を覆っていた巨大な陰謀が、ついに崩れ去った。


 黒幕である老貴族が合法的かつ静かに失脚したという報せは、すぐに宿場町リーベルの灯火食堂にも届けられた。

 張り詰めていた見えない糸が切れ、安全が完全に確保されたその日の夜。

 灯火食堂では、ささやかで温かい宴が開かれていた。


「さあさあ、遠慮しないでどんどん食べてね。今日は特別に、お肉も野菜もたっぷり入れたシチューよ」


 サヨが大きな土鍋ごとテーブルに運ぶと、待ちわびていた歓声が上がった。

 テーブルを囲んでいるのは、かつてこの店で救われた常連の五人。

 レオンはすでに三杯目のパンを要求し、ミラは呆れながらも「よく食べる男は嫌いじゃないわ」と軽口を叩いている。ユリウスは取り分けの世話を焼き、ノアは黙々とサクサクのクッキーをかじり、リナはそんな彼らをふわりとした笑顔で見守っていた。


 そして末席には、居心地が悪そうにしながらも、出されたシチューを大事そうにすするカイの姿もある。


「……こんなうめえもん、腹いっぱい食っていいのかよ」

「今日くらいはね。あんたもよくやったわよ、密偵さん」


 ミラがカイの肩を軽く叩き、カイはむせそうになりながら照れくさそうに顔を逸らした。


 命令と恐怖で動いていた影たちが、ただの一人の人間として一つの卓を囲み、温かい食事を分け合っている。

 それは、サヨが十七年間守り続けてきた「食べる人の顔を見る」という小さな営みが、国中から集まった冷たい悪意に打ち勝った証だった。



 賑やかな笑い声が響く中。

 シオンは一人、壁際に立ち、無意識のうちに鋭い視線を木戸の隙間へと向けていた。

 暗殺者や査察官の接近を警戒する、密偵としての染み付いた癖。


 ふいに、彼女の視界に小さな木の実のお茶が差し出された。


「……ルカ様」

「シオンさん」


 ルカは、温かいお茶の入ったコップをシオンの手にそっと握らせた。


「もう、警戒しなくていいんですよ。……怖い人たちは、もう誰も来ませんから」


 その言葉に、シオンはハッと息を呑んだ。

 そうだ。黒幕は失脚し、王太子を狙う脅威は完全に去った。

 つまり、王弟エリアスから下された「護衛」という任務は、すでに終わっているのだ。

 命令の論理に従うならば、彼女がこれ以上、この食堂の入り口を見張る理由は何もない。


 だが、シオンの手は、温かいコップをしっかりと握りしめていた。

 視線を店内に戻せば、サヨのシチューを食べて笑い合う人々の姿がある。

 自分はまだ、この温かい卓を、笑い合う彼らの姿を、見ていたい。ここが理不尽に踏み荒らされないように、守っていたい。


「……命令は、もうありません」


 シオンは、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。

 その声に、サヨやレオンたちが静かに振り返る。


「任務は、終わりました。……それでも私は、ここを守っていたい」


 シオンは、自分の内側に生まれた、名状しがたい温かい感情を言葉にする。

 任務だからでも、誰かに命じられたからでもない。

 かつてルカが、自分にお茶を注いでくれた時に言った言葉。温かさを教えてくれた少年のその言葉を、シオンは自分の意思として紡ぎ出した。


「誰かに言われたからではなく……私が、そうしたいから」


 感情を殺すのが当たり前だった彼女の顔に、ぎこちない、けれど確かな微笑みが浮かんだ。

 役割を放棄してただの給仕になるのではない。

 皆が安心してご飯を食べられるこの入り口を、「自分の意思で」守り続けるという、彼女なりの新しい決意。


「いい顔になったじゃないか、シオン」


 レオンが、自分の大きなジョッキを掲げてニッと笑った。


「守るとは、安心して飯を食える入り口を作ることだ。……これからは、自分のために、その入り口に立ってくれ」


 シオンは深く頷き、出されたお茶を両手で包み込んで、ゆっくりと一口飲んだ。



 その光景を見ていたルカの胸の中に、温かくて、力強い波が広がっていった。


 かつては、役割に押し潰され、ただ一人で震えていることしかできなかった。

 けれど今、自分の目の前には、命令や恐怖ではなく、心からの信頼で結ばれた人々が、一つの食卓を囲んで笑っている。

 サヨが作る温かいご飯が、傷ついた人たちを癒し、立ち上がらせていく。


 ルカは、コトンと木の実のお茶をテーブルに置き、静かに立ち上がった。

 賑やかだった食堂が、すっと静まる。


「サヨさん」


 ルカは、自分を死の淵から救い出してくれた女将を、真っ直ぐに見つめた。


「僕は、この食堂が好きです。……ここでご飯を食べて、よく眠って、みんなと笑うのが、本当に好きです」

「ええ。私も、あなたがここで笑ってくれるのが大好きよ、ルカ」


 サヨが優しく微笑むと、ルカは胸に手を当て、力強く言葉を継いだ。


「……でも、好きだからこそ、僕にはやらなきゃいけないことがあると分かりました」


 その言葉の意味を察し、誰もが静かにルカの次の言葉を待った。


「僕は、王宮へ帰ります。……帰って、この食堂のような場所を、国じゅうに作ります。誰も使い捨てにされず、弱い時があっても許されて、安心してご飯が食べられる国を、僕が作ります」


 それは、怯えて逃げ出した王子ではない。

 この辺境の小さな食堂で、「食」と「信頼」の力を知った一人の人間としての、絶対の決意だった。


 ルカの視線が、ふとシオンと交錯する。

 シオンが、自分の意思でここを守ると決めてくれたから。

 僕がいつでも帰ってこられるように、この入り口の灯りを絶やさないでいてくれるから。

 だから僕は、安心してこの場所を離れ、前に進むことができる。


 短い視線の交わし合いだけで、二人は深く理解し合っていた。

 道具をやめて「残る」ことを選んだシオンが、ルカの「出ていく」という選択の背中を、力強く押したのだ。


 しんと静まり返った店内に、ルカの決意の余韻が漂う。

 誰も口を開かず、ただ静かに少年を見つめていた。


 不意に、レオンが椅子から立ち上がり、ドン、と音を立ててその場に片膝をついた。

 そして、騎士団長としての最も厳格な礼をとり、深く頭を垂れる。


「……はっ。我らが王太子殿下の仰る通りに」


 驚くルカをよそに、今度はミラが立ち上がり、持っていた布巾をドレスの裾に見立てて、優雅なカーテシーを披露した。


「ええ、ええ。次期国王陛下のご立派な決意、大商会長として全力で支援させていただきますわ」

「……宰相府も、殿下の温かい国作りのために粉骨砕身いたしましょう」


 ユリウスが眼鏡を押し上げながら恭しく一礼し、リナも「聖女庁も、御意のままに」と微笑んで頭を下げる。ノアに至っては、無言のまま一番大きなクッキーをうやうやしく捧げ持っていた。


「えっ……あっ、あの……」


 急に畏まった大人たちに取り囲まれ、ルカは顔を真っ赤にして慌てふためいた。

 彼らの目が、完全に面白がって笑っていることに気づき、ルカは恥ずかしそうに頬を膨らませた。


「もうっ、みんな、からかわないでよ……!」


 ルカが抗議の声を上げると、大人たちはついに堪えきれずに吹き出した。

 その温かい笑い声に包まれて、ルカもまた、照れくさそうに、けれど本当に嬉しそうにはにかんだ。


「……今日はまだ、ルカでいたいです。もう少しだけ、みんなと一緒にシチューを食べさせてください」


「ああ、もちろんさ。たらふく食っていけ!」

「お鍋にはまだまだいっぱいあるからね。さあ、冷めないうちに座って座って」


 サヨがそう言ってルカの背中を押し、再びテーブルは温かい賑わいを取り戻した。


 昔、泣きながらスープを飲んでいた子どもたちが。

 今はこんなにも立派な大人になって、一人の少年の決意をからかいながらも、全力で支えようとしている。


 十七年間。

 ただ目の前の相手の顔を見て、今飲み込めるものを出してきただけの、小さな小さな営み。


(……ああ)


 サヨは、笑い合う彼らの顔を見つめながら、エプロンでこっそりと目元を拭った。

 彼女の魂の奥底にあった古傷が、温かい予感とともに解けていく。


 夜は更けていく。

 灯火食堂の温かい光は、明日へ向かって歩み出す子どもたちの背中を、どこまでも優しく照らし続けていた。

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