第48話 離さない、けれど、閉じ込めない
「準備中」の札が掛けられた灯火食堂に、カラン、と静かなドアベルの音が響いた。
布巾でテーブルを拭いていたサヨが顔を上げると、夜の冷たい空気を纏った王弟エリアスが、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。王宮での大掛かりな晩餐会を抜け出してきたのか、普段よりも少しだけ豪奢な夜会服を着崩している。
「……エリアス様。お疲れ様です。ルカ君……いえ、王太子殿下は?」
「無事に、彼自身の足で玉座の間に立ち、国王夫妻と抱き合ったよ」
エリアスはいつもの特等席であるカウンターの端に腰を下ろすと、王宮で起きた出来事を静かに語り始めた。
ルシアンが、豪奢な銀の皿を退けて、使い込まれた木の椀を選んだこと。
大勢での食事がまだ怖いと、自分の弱さを公の場で正直に口にできたこと。
そして、彼に寄り添う料理を作った料理長たちや、見捨てずに支えた医師長たちへ、自分の言葉で真っ直ぐに感謝を伝えたこと——。
「プライドの塊だったあのオルガが、泣き崩れて床に額を擦りつけていたよ。医師長ガイウスも、ぼろぼろと涙をこぼしていた。……彼らは完全に、君とルシアンに救われたんだ」
エリアスの低く優しい声を聞きながら、サヨの手からポロリと布巾が滑り落ちた。
前世の記憶が、ふと脳裏を過る。
無機質な白い壁、電子音、忙しなく行き交う医療従事者たち。
『ただの看護師が、治療方針に口出しするな』『患者の心に寄り添う暇があるなら、数値を管理しろ』。
効率と権威の中で否定され続け、誰のことも救えなかったという強烈な無力感。それが、サヨの心にずっとへばりついていた冷たい古傷だった。
けれど、この小さな食堂で十七年間、ただ目の前の人の顔を見て、その人が飲み込める温度のものを、祈るように作り続けてきた時間は。
地位も名誉も魔法の力もない、ただ「患者の心を見る」というささやかなケアの眼差しは。
深く傷つき、凍りついていた未来の王の心を溶かし、暗闇から引きずり上げた。
そして彼が紡いだ感謝の言葉は、王宮で権威にがんじがらめになっていた者たちの魂をも、見事に救い出したのだ。
「……ああ」
サヨの目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
「無駄じゃ、なかったんだ」
震える声で零れ落ちたその一言は、誰に向けたものでもない、サヨ自身を縛り付けていた鎖を解く魔法だった。
前世で否定された私のやり方は、間違っていなかった。
遠回りでも、地味でも、この十七年間の小さな積み重ねは、確かに一人の青年を救い、やがて国を救う光に繋がったのだ。
サヨの頬を伝う涙を、エリアスが長い指でそっと拭い取る。
その愛おしさに胸を締め付けられ、エリアスはふと、己の中に暗く独占的な欲求が首をもたげるのを感じた。
これほどまでに尊い魂を持つ女性を、誰の手も届かない安全な場所へ囲い込みたい。王族としての特権を使えば、それは容易いことだった。
「サヨ。……彼が王宮へ戻り、君の『大仕事』は終わった。だからこれからは、私と共に王宮へ――」
「エリアス様」
言葉を遮るように、サヨは涙を拭い、ふわりといつものように微笑んで立ち上がった。
「晩餐会を抜け出してきたのでしょう? お腹には、何も入れていないのではありませんか」
そう言って彼女がカウンターにコトリと置いたのは、ふわりと湯気を立てる温かいスープだった。
「少し、お待ちくださいね。今、ちゃんと温まるものを」と背を向け、厨房で立ち働くサヨ。
エリアスは微かに目を見開き、そして促されるままに木のスプーンを手に取り、スープを一口すする。
――じんわりと、五臓六腑に染み渡るような、優しい塩味と野菜の甘み。
その瞬間、エリアスの脳裏に、初めてこの食堂を訪れた夜の記憶が鮮明に蘇った。
暗殺と権謀術数が渦巻く冷たい王宮にすり減り、ただ一人で息を詰まらせていた自分を救ってくれたのは、この小さな食堂の温かい灯りと、誰に媚びるでもなく自分の足で立ち、ただ真っ直ぐに「食べる人」を想って作られたこの一杯のスープだった。
もし彼女に豪奢なドレスを着せ、王宮の奥深くに連れ去ってしまえばどうなるか。
この温もりは、あの冷たい石壁の中でいつしか失われてしまうだろう。彼女の魂の輝きを、彼女の日常を奪うのは、他でもない自分自身になってしまう。
エリアスは、自らの浅はかな独占欲を恥じるように、ふっと自嘲気味に笑ってスプーンを置いた。
「……いや。前言撤回だ」
「え?」
「私は君を、王宮の奥底に連れ去るつもりはない。美しいドレスを着せて、私の手の届く場所へ閉じ込めるような真似は絶対にしない」
驚いて振り返ったサヨの荒れた、けれど温かい手を取り、エリアスは真っ直ぐに告げた。
「君は、誰の所有物にもならない。君の居場所は、君が自分の足で立ち、人々に温かさを分け与え続けてきたこの『灯火食堂』だ。君からこの場所を奪えば、君の魂の輝きは失われてしまうから」
それは、彼女が十七年間積み上げてきた尊い労働と、独立した一人の人間としての在り方への、最大級の敬意と愛の形だった。
「君を離すつもりはない。だが、決して閉じ込めもしない」
エリアスは顔を上げ、サヨの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「だからサヨ。どうか、私を君の人生に招き入れてくれないか。君の灯すこの場所ごと愛し、私もここに属させてほしい」
連れ去るのではなく、属させてほしい。
それは、権力を持った王弟からの「命令」ではなく、一人の男からの、切実で不器用な「求愛」だった。
サヨは、ふわりと花が咲くように笑った。
かつての冷たい古傷はもう、どこにもない。心の中には、温かいスープを飲んだ後のような、満ち足りた熱だけがあった。
「……ええ。ここはいつでも、温かいご飯を作って待っている場所ですから。エリアス様の席も、ずっと空けておきます」
その言葉を聞いたエリアスが、安堵したように目を伏せ、サヨを力強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめる。
夜の底に沈む王都の片隅。
小さな灯火食堂の窓から漏れる温かい光は、これからもずっと、傷ついた迷い子たちの帰る場所として、優しく揺れ続けるのだった。
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