第43話 大商会長は、賄賂の匂いを帳簿から嗅ぎ当てた
密偵カイが、自らの命を賭して「教会の査察団が動く」という警告をもたらした翌日。
王宮の裏手にある、宰相補佐ユリウスの執務室には、足の踏み場もないほどの膨大な書類が積み上げられていた。
窓の分厚いカーテンは閉め切られ、昼間だというのに部屋の中は薄暗い。
卓上のランプの灯りだけを頼りに、ユリウスは血走った目で書類の束を猛烈な速度でめくり続けていた。
「……見つけました」
かすれた声とともに、ユリウスの細い指先が、一枚の古い食材伝票を叩いた。
「どう? 繋がったの、ユリウス君」
部屋の隅の長椅子で、同じように山のような帳簿と睨み合っていたロッソ商会の大商会長・ミラが、顔を上げる。
ユリウスは、乱れた銀髪をかき上げながら、机の上に数枚の書類を並べた。
「ええ。ノアが読み解いた蜜水と、リナが保護した内部協力者の証言。……それらが、ついにこの紙の上で一本の線になりました」
ユリウスが指し示したのは、王太子の離宮に運び込まれていた日々の食材伝票と、ガイウス医師長の施療記録、そして食材管理部の承認印が押された文書だった。
「ルカ殿下の胃腸が弱り始めた時期と、香辛料を大量に使った重い肉料理の搬入時期が完全に一致しています。そして、その食後に必ず、あの極端に冷たくて甘い蜜水が『滋養』の名目で提供されている」
ユリウスの静かな声が、冷たい執務室に響く。
「個別の食材に毒は入っていない。一つ一つは最高級の品だ。だから毒見役もスルーした。ですが……この組み合わせを毎日続けることは、幼い子どもの内臓を意図的に破壊し、緩やかに衰弱死させるという明確な『殺意』に他ならない」
「そして、その異常な献立を毎日承認し続けていたのが……」
「はい。保守派の古参、あの老貴族の息がかかった役人たちです」
かつて、数字しか信じられず、人の顔を見ることができなかったユリウス。
そんな彼に、「数字は人を食べさせ続けるためにもあるのよ」と教えてくれたのは、サヨだった。
だからこそ今の彼には、単なる数字と署名の羅列から、見えない悪意の形と、苦しんでいたルカの顔をはっきりと読み取ることができたのだ。
「これで、暗殺の手口の全貌は証明できます。……ですが」
ユリウスは、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
「問題は、教会の査察です。老貴族はすでに王宮の仕組みを切り捨て、教会の『身元不明児の保護』という大義名分を使ってルカ殿下を攫おうとしている」
「こっちの準備が整う前に、強引に盤面をひっくり返しに来たってわけね」
「はい。教会と王宮は管轄が違いすぎる。宰相補佐の私の権限でも、教会上層部が正式に発令した査察を、なんの理由もなく止めることはできません。……もし、老貴族が教会を裏で操っているという証拠を公的なルートから探そうとすれば、何ヶ月もかかってしまう」
それでは間に合わない。
純粋な善意で動く末端の神官たちが、灯火食堂の戸口に立ってしまう。
法と権力という巨大な壁を前に、ユリウスの手に焦りの汗が滲んだ。
その時だった。
「真面目なお役人様ね、ユリウス君は」
ミラがふっと笑い、自分の手元にあった分厚い革張りの帳簿を、ユリウスの机の上にドンッと置いた。
それは、王都のあらゆる物流と資金を握るロッソ商会の、極秘の取引台帳だった。
「いい? 公的な書類の決裁ルートは隠せてもね……これだけの大掛かりな査察を急に動かすための『賄賂』は、絶対に隠しきれないのよ。金には、必ず匂いがつくから」
ミラは、台帳のページをパラパラと捲り、ある一箇所を真っ赤な爪でトントンと叩いた。
「老貴族の名ばかり商会から、ここ数日で莫大な金が引き出されているわ。それが三つの商会と二つの闇ギルドを経由して、綺麗に洗浄されて……最終的に『匿名の敬虔な信徒からの寄付金』として、教会上層部の懐にそっくりそのまま流れ込んでいる」
ミラは、かつて宿場町の底辺で皿洗いをしていた少女だ。
這い上がる過程で、綺麗事だけでは回らない人間の汚い欲望も、金の流れも、すべてこの目で見てきた。だからこそ、王宮の温室で育った貴族には決して見えない「裏の金の流れ」を、いとも容易く嗅ぎ当ててみせたのだ。
「経路は追えなくても、金は追える。……これで、あの老いぼれが教会上層部を金で買ったという、動かぬ証拠の出来上がりよ」
ミラの言葉に、ユリウスは目を見開いた。
点と点が、完全に繋がった。
リナが連れ帰った内部協力者の証言。ノアが読み解いた蜜水の手口。カイが残した「死んだ王太子を探せと命じられた」という言葉。ユリウスが繋いだ紙の上の殺意。
そして今、ミラが突き止めた教会上層部への金筋。
剣も魔法も、一切使っていない。
彼らはただ、それぞれの持ち場で、自分たちの武器を使って、巨大な陰謀の首根っこを完全に押さえ込んだのだ。
「……ミラさん。ありがとうございます」
ユリウスは、震える手でそれらの書類を一つの束にまとめ、固く抱きしめた。
「これで、準備完了です」
「ええ。あとは、あの老人が自分の手で『最後の一手』を打つのを待つだけね。……公には何者でもないはずのルカを、わざわざ教会を使って保護しようとしたっていう、言い逃れのできない愚かな一手を」
ミラが不敵な笑みを浮かべ、ユリウスも深く頷いた。
彼らもまた、かつて灯火食堂の優しさに救われた子どもたちだ。
あの温かい場所を理不尽に踏みにじろうとする者を、彼らが許すはずがなかった。
すべての証拠が揃った。
残るは、正義と善意の仮面を被った教会の査察団が、灯火食堂の戸口に立つその瞬間だけだ。
静かな逆転の刃を研ぎ澄ませながら、王都の夜がゆっくりと明けていこうとしていた。




