第44話 聖職者は、攫われた子を救いに来た
空を分厚い鉛色の雲が覆い、冷たい風が通りを吹き抜ける昼下がり。
宿場町リーベルの灯火食堂に、普段の穏やかな空気はなかった。
カラン、と。
いつもなら心地よく響く木戸のベルが、今日はひどく重く、硬質な響きを伴って鳴った。
店に入ってきたのは、純白の法衣に身を包んだ若い査察官と、その護衛である数名の神殿騎士たちだった。
「突然の訪問、失礼する」
若い査察官は、店内に鋭い視線を巡らせた。
その顔に、悪党のような冷酷さはない。あるのはただ「可哀想な被害者を助け出さねばならない」という、燃えるような純粋な使命感と正義感だけだった。
「私たちは教会上層部より、正式な令状をもってここへ参った。……この食堂が、身元不明の幼い子どもを誘拐同然に連れ込み、不当に労働させて搾取しているという通報を受けてな」
査察官が掲げた羊皮紙には、教会の権威を示す赤い蝋印が押されていた。
王宮の暗殺計画という真実を隠し、純粋な善意を持つ教会の末端を騙して利用する。裏で糸を引く老人が放った、最も陰湿で抗いがたい「合法的な暴力」だった。
「さあ、その子をこちらへ渡しなさい。神の御名において、私たちが安全な孤児院へと保護しよう」
一歩踏み出そうとした査察官の前に、灰色のワンピースを着たシオンが、音もなく立ち塞がった。
騎士たちがシオンの隙のない足運びに警戒し、剣の柄に手をかける。
少し前のシオンなら、彼らが剣を抜くよりも早く、隠し持った暗器で全員の喉笛を掻き切っていただろう。絶対の命令に従う、冷たい影として。
だが、シオンは武器に触れなかった。
彼女は両手を体の横に自然に下ろし、ただ静かに、入り口の前に立ち続けた。
ここで自分が血を流せば、ルカが安心して粥を食べられる温かい場所は永遠に失われてしまう。誰の命令でもない、彼女自身の「この場所を失いたくない」という愛着が、彼女に剣を抜かせなかったのだ。
「……ここには、誘拐された子どもなどいません」
シオンの背後から、サヨが静かに進み出た。
政治的な力も、戦う術も持たないただの食堂の女将。それでも、サヨは少しも怯むことなく査察官の瞳を見つめ返した。
「あの子は、ここでご飯を食べて、よく眠って、笑っているわ。……『保護』なんていう言葉で、あの子の居場所を奪うことは許しません」
「騙されはしないぞ、悪辣な店主め! 言葉で誤魔化そうとしても無駄だ、直ちに中を検めさせてもらう!」
通報を信じ込んでいる査察官が、強引に押し通ろうと声を荒げた、その時だった。
「……待ってください」
厨房の奥から、小さな足音が聞こえた。
サヨのエプロンの横をすり抜け、査察官の前に姿を現したのは、ルカだった。
「ルカ、出てきちゃ駄目よ……!」
「大丈夫だよ、サヨさん」
ルカはサヨに小さく微笑みかけると、そのままトコトコと厨房のかまどの方へ歩いていった。
査察官や騎士たちが呆気にとられて見守る中、ルカは踏み台に乗り、サヨが仕込んでいた小鍋に火を入れる。
(いい、ルカ君。顔が強張って、肩に力が入っているお客さんにはね……)
いつかサヨが教えてくれた言葉を思い出しながら、ルカは木杓子でゆっくりとスープをかき混ぜた。
焦げ付かないように、下から優しく。
少しだけ温度を下げて、飲みやすく。
そして仕上げに、緊張をほぐす爽やかな香りのハーブをひとつまみだけ散らす。
ルカは、湯気を立てるスープを木の椀によそい、両手でしっかりと持ちながら査察官の目の前まで歩み寄った。
「外は、冷たい風が吹いて寒かったでしょう。……怒った顔をしていると、お腹が痛くなってしまいます。だから、これを飲んでください」
ルカは、真っ直ぐな瞳で査察官を見上げて、椀を差し出した。
王宮で怯え、食事を恐れていた青白い顔の子どもは、もうどこにもいない。自分の足で立ち、自分の意思で誰かを労ろうとする少年の姿がそこにあった。
「な、何を……」
査察官は戸惑いながらも、あまりにも良い匂いと、少年の澄み切った瞳に気圧され、無意識のうちに椀を受け取っていた。
そして、警戒しながらもスープを一口、口に含む。
「……あ」
その途端、査察官の瞳が大きく見開かれた。
芯から冷え切っていた身体に、驚くほど優しい温もりが染み渡っていく。ただ美味しいだけではない。飲む人間の顔を見て、その人が一番安らぐようにと、細やかな気遣いが隅々まで行き届いた味だった。
査察官は、椀を持つルカの小さな手を見た。
酷使されて傷ついた手ではない。誇りを持って働き、丁寧に何かを作り出そうとする、優しくて温かい手だった。
(……誘拐され、不当に搾取されている子どもが、こんなにも愛の込もったスープを作れるはずがない)
その事実を、純粋な善意で動いている査察官の『心』が、はっきりと理解してしまった。
教会上層部から吹き込まれていた「誘拐」という前提が、一杯のスープの温かさによって、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
「美味しい……。とても、優しい味だ」
査察官の強張っていた顔がふわりと解け、目尻にわずかな涙が滲んだ。
その時、開け放たれたままの木戸から、澄んだ声が響いた。
「この子の保護責任は、すでに私たち聖女庁が負っています。……あなたの出番はありませんよ、査察官殿」
現れたのは、純白のローブに身を包んだ聖女庁治癒師長、リナだった。
彼女は、教会と同じ権威を持つ聖女庁の紋章を静かに掲げた。
「この子は、特例の施療対象として聖女庁の観察下に置かれています。この灯火食堂での療養も、私が正式に認めたものです」
「聖女庁の、治癒師長殿が……? だが、本部の記録には……」
「本部の記録なら、ここにあります」
リナの背後から、分厚い書類の束を手にした宰相補佐のユリウスが、静かに足を踏み入れた。
「内務省および宰相府が正式に受理した、この少年の居住証明と、一時後見人の認可書類です。……どうやら、教会の令状よりも、こちらの公文書の決裁の方が一足早かったようですね」
ユリウスが差し出した完璧な公文書と、聖女庁という正規の後ろ盾。
査察官は、書類と、サヨの隣で誇らしげに微笑むルカの顔を交互に見つめ、やがて、深く息を吐き出して令状を下ろした。
「……どうやら、私の上官は、とんでもない誤解をしていたようだ」
査察官は、少年のスープの味の余韻を噛み締めるように、優しく微笑んだ。
「申し訳なかった、女将殿。そして、少年よ。……君がこんなにも温かい場所を見つけられたこと、神の使いとして、心から祝福する」
査察官は深く一礼すると、騎士たちを連れて、静かに店を去っていった。
遠ざかる足音を聞きながら、シオンはほうっと長く息を吐き、張り詰めていた肩の力を抜いた。
剣も、魔法も、強権的な王宮の力も使わなかった。
ただ、サヨが積み上げてきた十七年の温かさと、ルカ自身が手に入れた「食の優しさ」が、巨大な陰謀の暴力を無血のまま退けたのだ。
そして、裏で糸を引く老人が、教会という公的な力を使って「公的には居ないはずの子供」を強引に回収しようとしたこの瞬間。
彼の罪は言い逃れのできない形となって盤面上に露呈し、逃げ道はすべて、完全に塞がれたのだった。




