第42話 浮浪者は、温かい方へ帰ってきた
凍てつくような冬の風が、宿場町リーベルの通りを容赦なく吹き抜けていく。
分厚い雲が月を隠す、深く冷たい夜だった。
カイは、泥にまみれた着古した外套を引きずるようにして、暗い路地を歩いていた。
王都からここまで、休むことなく馬を飛ばし、最後は自らの足で走ってきた。息は上がり、足は鉛のように重い。
黒幕である王都の老貴族に「奥の部屋はただの物置だった」という嘘の報告をしてから、数日が経っていた。
本来なら、密偵である彼は王都の影に潜み、次の命令を待つか、身の危険を感じて遠くへ逃亡するべきだった。一度主を裏切った道具に、生きて帰る場所などどこにもない。
だが、彼の足は、気がつけばこの辺境の宿場町へと向かっていた。
(……『またいつでも、温まりに来てくださいね』……か)
いつかこの町で、温かいスープと共にかけられた言葉。
使い捨ての影として生きてきた自分に、ただ腹を空かせた一人の人間として向けられた、無防備で優しい声。
その記憶だけが、凍えそうなカイの背中を押していた。
やがて、見覚えのある小さな看板が闇の中に浮かび上がった。
灯火食堂。
営業時間はとうに過ぎており、表の灯りは落ちている。だが、扉の隙間からは、微かに薪が爆ぜる匂いが漂っていた。
カイは、震える手で木戸を叩いた。
トントン、と遠慮がちな音が夜の静寂に響く。
ほんの数秒の後、音もなく木戸が内側から開かれた。
隙間から現れたのは、冷たい殺気を纏った灰色のワンピースの給仕——シオンだった。彼女の右手は、すでにエプロンの裏に隠した暗器の柄を握っている。
「……お前か」
シオンの低い声に、カイは抵抗の意思がないことを示すように、ゆっくりと両手を上げた。
「待ってくれ……争いに来たんじゃない。ただ……伝えなきゃならねえことがあって、来たんだ」
カイの青ざめた顔と、荒れ狂う呼吸を見て、シオンの背後からサヨが顔を出した。
彼女はカイの泥だらけの姿を見ると、小さく息を呑み、そしてシオンの肩にそっと手を置いた。
「シオンちゃん、大丈夫よ。……中に入って。外は凍えるでしょう」
「女将……ですが、こいつは」
「いいの。……この人は、温まりに来たんだから」
サヨの言葉に、シオンはわずかに逡巡した後、道を空けた。
店の中に入ると、かまどの余熱が残る空気がふわりとカイを包み込んだ。それだけで、張り詰めていた彼の神経が、どっと解けそうになる。
「座って。今、温かいものを出すから」
サヨはカイを椅子に座らせると、手早く小鍋を火にかけ、残っていた出汁と少しの具材で夜食の雑炊を作り始めた。
カイは、手を出されて捕縛されることもなく、ただ客として扱われていることに戸惑いながら、湯気を立てて出された椀を見つめた。
「……食って、いいのか。俺は、あんたたちを探っていた密偵だぞ」
「お腹が空いているんでしょう? 話は、それを食べてから聞くわ」
サヨは微笑んで、温かい薬草茶をカイの横に置いた。
カイは震える手で匙を取り、雑炊を口に運んだ。
優しい出汁の味が、冷え切った胃の腑に染み渡っていく。五臓六腑がじんわりと熱を持ち、自分がまだ生きているという実感が湧き上がってくる。
あっという間に椀を空にしたカイは、深く、長い息を吐き出した。
「……ごちそうさまでした。やっぱり、あんたの飯は最高に美味えな」
カイは自嘲するように笑うと、姿勢を正し、サヨとシオンを真っ直ぐに見据えた。
「俺は、あの老貴族に嘘をついた。あんたの店には何もない、ただの物置だったと報告して、あんたらを庇った」
「どうして……」
「さあな。ただ………この場所を踏み荒らされるのを見たくなかっただけだ」
カイは、テーブルの上で両手を強く組んだ。
「だがあの老人は、俺たち下っ端の密偵を送り込むのをやめた。手駒がここへ来るたび、毒気を抜かれて使えなくなることに苛立ってな」
「……」
「俺の嘘じゃ、もう庇いきれない。あの老人は、次は『教会』を使う気だ」
その言葉に、サヨの顔色が変わった。
シオンもまた、鋭い視線をカイに向ける。
「教会……?」
「ああ。教会上層部に多額の賄賂を握らせて、でっち上げの難癖をつけたのさ。『身元不明の子どもを不当に預かり、労働させている悪質な食堂がある』とな。半ば誘拐のように子どもを囲い込んでいるって名目で、堂々とこの店に踏み込んでくる」
それは、想像を絶する陰湿で恐ろしい一手だった。
密偵や暗殺者が来るのなら、シオンが追い払うことができる。だが、教会の査察団となれば話は別だ。
末端の神官や異端審問の騎士たちは、「攫われた可哀想な子どもを救い出す」という純粋な善意と正義感で動いている。彼らに武力で抵抗すれば、それこそ誘拐犯としての罪を決定づけ、ルカの身元まで暴かれてしまうだろう。
「王太子の名を一切出さずに、合法的に店を検め、子どもを『保護』という名目で連れ去る気なんだ。……もうすぐ、大義名分を掲げた査察の連中がここへ来るぞ」
タイムリミットを告げる時計の針が、声高に鳴り響いた瞬間だった。
サヨは青ざめながらも、奥の部屋で眠るルカを守るように、静かに立ち上がった。
「……教えてくれて、ありがとう。でも、私たちは逃げないわ」
「女将さん……」
「ここは、あの子が自分で『ここにいたい』と選んだ場所だから。教会の人が来ようと、理不尽な難癖をつけられようと、私はここを開け渡すつもりはないの」
サヨの揺るぎない決意に、カイは目を丸くし、やがてふっと肩の力を抜いた。
「……そう言うと思ったよ。本当に、あんたたちは馬鹿みたいに強くて、温かいな」
カイは、懐から一枚の粗末な羊皮紙を取り出し、テーブルの上に置いた。
そこには、王都の暗号で書かれた短い指令書の写しがあった。
「俺はもう、あの暗く冷たい場所には戻らねえ。俺の命は、今ここで捨てる」
カイは、影としての自分を殺す決意と共に、最後の、そして最大の切り札を二人の前に差し出した。
「あんたたちに、これを渡す。……そして、もし証言が必要なら、俺が役人の前でも王弟の前でも、どこででも口を割ってやる」
「証言……?」
「ああ。これが、あの老貴族が俺に下した本当の命令だ」
カイは、静かに、しかしはっきりと言い放った。
「奴は俺に、『死んだはずの王太子を探せ』と命じたんだ」
その言葉の意味を理解した瞬間、シオンが息を呑んだ。
公には、王太子ルシアンは「離宮で静養中」となっている。一部で死亡の噂は流れているものの、王宮は決してそれを認めていない。
つまり、黒幕である老貴族は、「王太子が一度死にかけ、そしてどこかで生き延びていること」を知った上で、暗殺の証拠隠滅のために探し出そうとしていたのだ。
これは、彼が単なる病気や不慮の事故ではなく、明確な悪意を持って王太子を消そうと動いていた何よりの証拠となる。
「老貴族は、生存を知って動いていた。俺がその生き証人になってやる」
それは、ただ命令に従うだけの道具だった男が、自らの意思で「信頼」を選び取った瞬間だった。
教会の査察が迫る中、彼らはついに、黒幕の息の根を止めるための決定的な剣……いや、決着の証言を手に入れた。
王宮の深い闇を暴くための静かな反撃が、この小さな食堂から、確かな熱を帯びて広がり始めていた。




