第41話 聖女は、罪人ではなく怯えた子を迎えに行った
王都の空は、辺境の宿場町リーベルよりもずっと重く、冷たく感じられた。
分厚い雲が陽の光を遮る昼下がり。聖女庁治癒師長であるリナ・フェルメールは、王宮の裏手にある、使用人や見習いたちが暮らす居住区の薄暗い廊下を歩いていた。
ノアが読み解いた「震える指紋」。
その魔力の波長を聞いた時、リナの脳裏には一人の少女の姿が鮮明に浮かび上がっていた。
かつて、衰弱しきったルカの解毒のために王宮の離宮へ呼ばれたあの日。完璧に整えられた厨房の片隅で、自分の肩を抱くようにして、ひどく怯えた目をしていた若い治癒師の見習い。
リナは、居住区の一番奥にある狭い部屋の前で足を止めた。
扉の隙間からは、微かに震えるような、弱々しい気配が漏れ出している。
「……入りますよ」
リナが静かに扉を開けると、部屋の隅のベッドで膝を抱えていた少女が、ビクッと肩を跳ねさせた。
エルマという名のその見習いは、リナの純白のローブと、治癒師長という地位を示す胸の紋章を見た瞬間、絶望に顔を歪ませた。
「あ……ぁ……」
ついに捕まえに来たのだ。
王太子を暗殺しようとした大罪人として、冷たい地下牢へ引きずられていくのだ。
エルマはガタガタと震えながら、床に這いつくばるようにして頭を擦りつけた。
「ち、違うんです……! 私は、ただ……借金取りに売り飛ばすと言われて……逆らえなくて……!」
ポロポロと涙をこぼし、狂乱したように弁解を続けるエルマ。
リナは、その震える小さな背中を見下ろしながら、ゆっくりと膝をついた。
「エルマさん」
リナの声は、審問官のような冷たいものではなく、ひどく穏やかだった。
「顔を上げてください。私は今日、あなたを罪人として捕縛しに来たのではありません」
「え……?」
「あなたを、迎えに来たんです」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げたエルマに、リナはそっと手を伸ばした。
だが、すぐにその手に触れることはしなかった。
リナは自分の両手を胸の前で合わせ、こすり合わせるようにして、ふうっと温かい息を吹きかけた。
それは、かつてリナ自身が病弱で、明日の命も知れずに部屋の隅で震えていた頃。
サヨがいつも、冷え切ったリナの身体に触れる前に、必ずしてくれていた行動だった。
「驚かせないように、少し温めてから触れますね」
リナは微笑み、じんわりと温かくなった自分の両手で、氷のように冷え切っていたエルマの小さな手を、そっと包み込んだ。
「……あ」
「ずっと、怖かったでしょう。一人で、震えていたんですね」
責めるのではなく、ただ真っ直ぐに痛みを受け止めてくれる温かい手。
その体温に触れた瞬間、エルマの中に張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
エルマはリナの手を握り返し、声を上げて泣き崩れた。
「怖かった……っ、怖かったです……! 私が運んでいる食事が、少しずつ殿下のお身体を壊していく仕組みだと、気づいてしまったから……!」
エルマは、しゃくりあげながら、王宮の闇の中で強いられた事実を語り始めた。
王都の老貴族の息がかかった者たちに家族の命を握られ、食事の配膳を操作するよう命じられたこと。
香辛料と油の強い食事の後に、極端に冷たく甘い蜜水を運ばされたこと。
毒を盛るわけではない。ただの食べ合わせだ。そう自分に言い聞かせようとしても、治癒の心得がある彼女には、それが幼い王太子の胃を完全に破壊するための悪意ある設計だと分かってしまった。
「でも、逆らえなくて……。せめて、せめて誰か力のある大人が、この異常に気づいて止めてくれないかと祈って……蜜水の瓶に、わざと私の魔力を残しました……」
綺麗に拭き取るよう命じられていた魔力の痕跡を、彼女は最後の抵抗として残した。
見つけてほしい。誰か、あの子を助けてほしい。
それは、巨大な権力に押し潰されそうになりながらも、彼女が必死に手放さなかった「人間としての良心」だった。
「私は、弱くて、卑怯な人間です……っ」
「いいえ」
リナは、エルマの涙を指先で優しく拭った。
「あなたは弱い人ではありません。弱い立場に置かれ、弱い時があっただけです。……あなたが残してくれた祈りは、ちゃんと見つけてもらえましたよ」
「本当、ですか……?」
「ええ。だからこそ、私はあなたを助けに来ることができました」
灯火食堂でサヨが教えてくれた論理が、王宮の闇の底で震えていた見習いの魂を、今、確かに救い上げていた。
「エルマさん。治癒師長の権限で、あなたとあなたのご家族を聖女庁の保護下に置きます。もう、卑怯な卑劣な人間の命令に従う必要はありません」
リナの力強い宣言に、エルマは何度も何度も頷き、感謝の涙を流した。
これで、陰謀を証明する決定的な「証言」が手に入った。ノアが読み解いた痕跡と、彼女の証言が合わされば、老貴族が仕掛けた緩慢な暗殺の仕組みを完全に暴くことができる。
「ありがとうございます……フェルメール様。本当に……」
少し落ち着きを取り戻したエルマは、ふと、何かを思い出したように顔を強張らせた。
「あの……一つだけ、気になっていることがあるんです」
「なんでしょうか?」
エルマは周囲を気にしながら、声を潜めて言った。
「私を脅した貴族の使いの者たちが……数日前、教会の高位神官様たちと密会しているのを見たんです」
「教会の、上層部と……?」
「はい。重そうな金貨の袋を渡しながら、『孤児の保護を名目に、宿場町の店を一つ踏み潰してくれ』と……。神官様たちも、気味の悪い笑みを浮かべて頷いていました」
その言葉を聞いた瞬間、リナの背筋に冷たいものが走った。
聖女庁は、教会と地続きの組織だ。リナはその治癒部門の長として、教会がどれほど巨大で、絶対的な「正しさ」の権威を持っているかを身をもって知っている。
もし、老貴族が教会上層部を賄賂で動かし、末端の純粋な善意を騙して「身元不明の子どもの保護」という大義名分で灯火食堂へ踏み込もうとしているとしたら。
(王太子の暗殺計画が露見する前に、ルカ君を合法的に回収し、証拠となるサヨ先生の店ごと潰す気だわ……!)
リナは、自分を拾い、育ててくれた巨大な組織の最上層が、汚い金で腐敗しているという事実に、強い吐き気を覚えた。
許せない。この手で今すぐ上層部の不正を正したい。
だが、今の彼女の権限では、腐敗した上層部の決定を直接覆すことはできない。
リナは、胸の奥で燻り始めた怒りの火種を、今は静かに押さえ込んだ。
(教会の腐敗を正すのは、今じゃない。今はまず、サヨ先生たちを守り抜くこと……!)
陰謀の証拠は集まりつつある。だが、暗躍側の最後の一手である「教会の査察」というタイムリミットが、すぐそこまで迫っている。
「エルマさん、すぐに出発する準備を。安全な場所へ移ります」
リナは立ち上がり、静かに、だが決して後戻りしない決意を込めて前を向いた。
冷たい王宮の闇の中で、温かい手によって引き上げられた証言者が一人。
灯火食堂を守るための時間との戦いが、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。




