第40話 魔術師団長は、震える指紋を読み解いた
深い夜の帳が下りた宿場町リーベル。
営業を終えた灯火食堂の店内は、表向きはしんと静まり返っている。だが、空気は薄氷のように張り詰めていた。
シオンは入り口の死角に身を潜め、外の気配を探っている。奥の小部屋では、ルカがノアの置いた橙色の灯りに守られ、静かな寝息を立てていた。サヨは厨房に残り、白湯を沸かしている。
ふいに、裏口に張られた見えない結界が微かに波打った。
シオンが一瞬で影の顔になり、音もなく滑る。だが、木戸を開けて入ってきた深い色のローブ姿を見て、彼女はスッと構えを解いた。
「……夜分にすまない」
王国魔術師団長、ノアだった。
彼の手には、先日「もう一度きちんと読みたい」と言い残していた、あの小さなガラス瓶が握られている。
「ノア君。その瓶は……」
サヨが歩み寄ると、ノアは静かに頷き、厨房のカウンターに瓶を置いた。
「あれから、ユリウスに頼んで王宮の食材記録と配膳の記録を調べてもらった。……そして、この瓶に残されていた『ひどく震えている指紋』を、深く読み直した」
ノアは、言葉を一つ一つ選ぶように、ゆっくりと語り始めた。
「中身は、毒じゃない。呪いでもない。ただの最高級の蜜を、冷たい水で割ったものだ。……だが、王太子の毎日の食卓の記録と組み合わせると、意味が変わる」
ノアの言葉に、サヨは怪訝な顔をした。
「記録によると、ルカには毎日、滋養をつけるためという名目で、香辛料を強く利かせた魔獣の肉や、濃厚で重いソースのかかった料理が出されていた。……そしてその食後に必ず、この極端に甘く、冷やされた蜜水が与えられていたそうだ」
その瞬間、サヨの顔から血の気が引いた。
料理を作り、人の胃腸を労わることを生業としている彼女には、それが何を意味するのかが痛いほどに理解できたからだ。
「……そんなものを毎日食べさせたら、大人だって胃が壊れるわ」
「ああ」
「ルカはあんなに小さくて、ただでさえ重圧で食事が喉を通らなかったのに。……消化不良を起こしている胃に、香辛料と油と、極端に冷たい甘味を流し込み続けたら、最後には水さえ受け付けなくなる。衰弱していくのは当然よ」
サヨは、カウンターを握る手にぎゅっと力を込めた。
「毒なんか盛る必要はなかったのね。……善意の滋養を装って、食べ合わせだけで、ルカの身体を少しずつ壊すために……」
毒見役もすり抜ける。治癒魔法でも『ただの消化不良と衰弱』としか診断されない。あまりにも陰湿で、人の命を数字や道具としか見ていない冷酷な手口だった。
「……だが」
ノアは、怒りに震えるサヨを静かな声でなだめるように、ガラス瓶の上に手をかざした。
「一番重要なのは、その手口じゃない。……これを見てほしい」
ノアが微弱な魔力を流し込むと、瓶の表面から、淡い青色の光の粒子がフワリと空中に浮かび上がった。
だが、その光は不安定に揺れ、チカチカと小刻みに明滅している。
「最後にこの瓶に触れ、配膳した者の魔力痕跡だ。……悪意じゃない。ひどく怯えて、手が震えている者の魔力だ」
ノアは、空中の光の粒子をじっと見つめた。
「さらに深く波長を読んだ。……これは、素人じゃない。微弱だが、確かな治癒魔法の心得がある者の魔力だ。だからこそ、自分の運んでいるものが王太子を弱らせるための仕組みだと気づいてしまったんだろう。だが、上の人間に脅されていて、逆らうことができなかった」
自分が運ぶものが命を削ると知りながら、命令に従うしかなかった絶望。
それでも、誰かに気づいてほしくて残した、悲痛な祈り。
その時、入り口の木戸がトントン、と決まった回数で叩かれた。
シオンが鍵を開けると、地方の施療巡回から王都へ戻る途中のリナが、ひどく強張った顔で飛び込んできた。
「先生、遅くなりました。……ノア様も」
サヨはリナをカウンターに招き入れ、ノアが読み解いた事実と、空中の魔力痕跡を見せた。
リナは、その「治癒系の怯えた魔力」という言葉と、青く震える光の波長を見た瞬間、息を呑んで立ち尽くした。
「……心当たりがあります」
リナの声は、微かに震えていた。
「聖女庁の若い見習いの子です。魔力は弱いけれど、とても真面目で……王宮の厨房へ、健康管理の補佐として配属されていました」
「リナちゃん……」
「ルカ殿下……いえ、ルカ君の解毒に私が呼ばれた時、厨房の隅で、その子がひどく怯えた顔でこちらを見ていたのを覚えています。……先日、彼女の父親が多額の借金を抱え、急にそれを全額返済したという噂を聞きました。……きっと、裏で糸を引く者にそれを握られ、道具として使われていたんです」
ノアが痕跡(魔力)を読み、リナがその奥の「人」を読む。
かつてこの食堂で救われた二人の見事な連携が、王宮の深い闇の中に沈んでいた一人の犠牲者の輪郭を、はっきりと浮かび上がらせた。
リナは、両手で自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
かつて病弱で、明日の命も知れず、ただ部屋の隅で震えていた自分。誰かに手を差し伸べてもらえなければ、絶望の中で心を殺すしかなかった過去の自分が、その見習いの少女と重なって見えたのだ。
「……私が、行きます」
リナは、決意を込めた真っ直ぐな瞳で、サヨとノアを見た。
「王都へ戻り、あの子を保護します。……罪人としてではなく、脅えて震えている一人の人間として、私が迎えに行きます。あの子の証言があれば、裏で糸を引いている者の企みを証明できるはずです」
リナの言葉に、ノアは小さく頷き、空中の魔力痕跡をそっと手のひらで消した。
シオンもまた、入り口の闇の中で、静かに二人を見守っている。
恐怖と命令で人を道具にする王宮の陰謀を、信頼と温かさで内側から崩していく。
かつてこの食堂で救われた子どもたちによる、静かで、しかし決して後戻りしない反撃が、確かな足音を立てて動き始めていた。




