第39話 浮浪者は、二度目の嘘をついた
凍てつくような冬の風が、宿場町リーベルの通りを吹き抜けていく。
カイは、着古した外套の襟を立て、薄汚れた路地裏の影に身を潜めていた。
彼の耳の奥には、数日前に王都の連絡員から突きつけられた、氷のような命令がこびりついている。
『あの食堂の、奥の小部屋を探れ。死んだはずの子どもが隠れていないか、お前の目で直接確かめてこい。……これ以上無能な報告を持ち帰れば、お前がどうなるか分かっているな』
王宮の暗闘において、カイのような末端の密偵の命など、路傍の石ころよりも軽い。
使い捨ての道具として生きてきた彼にとって、命令に逆らうことは死を意味していた。
カイは重い足取りで路地を抜け、見覚えのある看板の前に立った。
灯火食堂。
隙間から漏れ出すオレンジ色の灯りと、微かに漂ってくる出汁の匂いが、彼の冷え切った身体を無意識のうちに惹きつける。
カラン、カラン。
木戸を開けると、温かい空気がふわりと顔を撫でた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですね。どうぞ、こちらのお席へ」
瞬時に目の前に現れたのは、灰色のワンピースを着た給仕の娘だった。
完璧な笑顔。花が咲くような声。
だが、カイの視線を誘導し、彼が店内を見渡すよりも早く、奥の小部屋への死角となる壁際の席へと押し込むその足運びは、尋常なものではない。
彼女は給仕の顔をした、恐ろしいほどの練度を持った影だ。
カイは警戒を強めながら、前回と同じ、入り口に最も近い席へと腰を下ろした。
「いらっしゃい。……あら」
厨房の奥から、女将のサヨが顔を出した。
彼女はカイの汚れた風体を見ても顔をしかめることなく、むしろ安堵したように目を細めた。
「また来てくれたのね。外は寒かったでしょう。今、温かいものを出すからね」
サヨの声には、裏の探り合いも、密偵への警戒も含まれていなかった。
そこにあるのは、ただ「お腹を空かせた客に、温まってほしい」という、純粋で無防備な優しさだけだ。
カイはその真っ直ぐな眼差しに射抜かれ、思わず目を逸らしてしまった。
すぐに、シオンの手によって食事が運ばれてきた。
本日は、とろとろに煮込まれた豆と根菜のスープに、少し厚めに切られた黒パン。
湯気とともに立ち上る大地の豊かな香りが、カイの胃袋をきゅうっと鳴らさせた。
だが、今日はただ飯を食いに来たわけではない。
カイは木のスプーンを握りしめながら、視線だけを鋭く動かした。
(どうする。このまま座っていても、あの給仕が邪魔で奥は覗けない)
立ち上がって、わざと派手に転んでみるか。
暴れるふりをして、一気に厨房の奥まで踏み込むか。
どちらにせよ、あの給仕との接触は避けられないし、店の中はめちゃくちゃになるだろう。
カイが筋肉を強張らせ、決死の覚悟で席を立とうとした、その瞬間。
彼の脳裏に、前回この店で聞いた、小さな少年の言葉が鮮明に蘇った。
『命令だけで人が動く場所は、怖いです。……誰も心から笑っていないし、誰も本当の言葉を喋らないから』
あの時、少年はカイの顔を見て、確かにそう言ったのだ。
命令されて、怯えながら嘘をついている、可哀想な大人だと。
カイは、息を呑んで動きを止めた。
今、自分がここで命令に従って暴れれば。
この温かいスープの匂いも、女将の屈託のない笑顔も、すべてが台無しになる。この場所が、自分が今まで生きてきた、誰も笑わない血生臭い「戦場」と同じ場所になってしまう。
カイは、ゆっくりとスプーンをスープに沈め、一口すくって口に運んだ。
「……っ」
熱い。
そして、どうしようもなく優しい味がした。
冷え切った内臓の隅々にまで、染み渡っていくような温もり。
それは、ただのスープの味ではない。自分が人間として大切に扱われ、飢えを満たしてもいいのだと許されているような、絶対的な安心の味だった。
カイは、奥の部屋を覗き込むことをやめた。
これ以上、自分の汚れた足で、この温かい場所を踏み荒らしたくなかった。
ただ無心にスープを飲み干し、パンで皿の底を綺麗に拭い取る。
最後の一口を飲み込んだ後、カイは数枚の銅貨をテーブルに置き、誰とも目を合わせずに立ち上がった。
サヨが「お粗末様でした。またいつでも来てね」と声をかけるのを背中で聞きながら、彼は逃げるように木戸を開け、冷たい夜の闇の中へ姿を消した。
*
数日後。王都の貴族街の最奥。
重い帳の下ろされた薄暗い書斎で、老貴族は不機嫌そうに指先で机を叩いていた。
「……それで?」
地を這うような低い声に、報告に上がった部下はビクッと肩を震わせた。
「は、はい。リーベルに放った密偵からの報告によりますと……あの食堂の奥の小部屋には、食材の樽や麻袋が積まれているだけで、ただの物置だったとのことです。王太子らしき子どもの姿は、影も形もなかったと」
「確かなのだな?」
「はい。密偵本人が、この目で直接確かめたと申しております」
部下は、カイから受けた報告をそのまま読み上げた。
カイは、黒幕からの「奥を探れ」という絶対の命令に対し、初めて明確な『嘘』をついたのだ。
自分の命が危うくなるリスクを背負ってでも、あの食堂の日常を、そして奥にいるはずの少年をかばうために。
老貴族は忌々しげに舌打ちをした。
ガイウス医師長の不審な動き。王弟の沈黙。小さな食堂の存在。
すべてのピースが合致しているはずなのに、決定的な証拠だけがすり抜けていく。
「……無駄骨だったか。死んだ子どもが、辺境の食堂などで生きているはずもないというのに」
老貴族は苛立ち紛れに報告書を机に放り投げた。
そして、思い出したように目を細め、目の前でひれ伏す部下をねめつけた。
「……で。あの食堂の飯はどうだったのだ」
「えっ」
「前回、私が確かめさせろと命じたはずだ。誰もが口を揃えて褒めそやす、あの薄気味悪い食堂の飯の味をな。あの底辺の密偵は、何と報告してきた」
部下は、ひどく言いにくそうに視線を泳がせ、喉をごくりと鳴らした。
「そ、それが……」
「言え」
「『……うまかったです』と。ただ一言、そう報告にありました」
その瞬間、老貴族は机の上にあったインク壺を、激しい勢いで壁に向かって投げつけた。
ガシャン、と陶器が砕け散り、黒いインクが壁紙を無惨に汚す。
「またそれか!!」
老貴族の怒声が、冷たい書斎に響き渡った。
「どいつもこいつも、役に立たん無能ばかりだ! たかが平民の粥やスープごときで、何を骨抜きにされている!」
老貴族は荒い息を吐きながら、椅子に深く沈み込んだ。
恐怖と命令で完全に支配し、自らの手足として使っているはずの影の者たちが。あの辺境の小さな食堂に関わった者から順番に、何故か毒気を抜かれたように使えなくなっていく。
老貴族には、その理由が全く理解できなかった。
道具は、恐怖で縛らなければ動かない。
それが、彼が長年王宮で信じてきた、絶対的なルールだったからだ。
誰も信じず、誰も顔を見ようとしない冷たい王都の部屋で。
老貴族が手足のように使っていたはずの道具の歯車は、温かい一杯のスープによって、確実に、そして致命的に狂い始めていた。




