第38話 影の女は、明日を待つ理由を探した
まだ夜が明けきらない、青鈍色の早朝。
宿場町リーベルの冷たい空気に包まれた灯火食堂の裏口で、サヨは一人の男の背中を見送ろうとしていた。
「本当に、もう発たれるのですね」
サヨが小さく声をかけると、着古した平民の外套を深く羽織ったエリアスが、静かに振り返った。
「ええ。私が長く王都を空ければ、それだけここへ不審な目を向けさせることになりますから」
昨夜、十七年前と同じようにボロボロの格好で現れ、サヨを力強く抱きしめた王弟の顔には、すでに冷徹な為政者としての仮面が戻りつつあった。
それでも、サヨを見つめるその翡翠の瞳の奥だけは、隠しきれない熱と優しさが揺らいでいる。
「サヨ殿。……どうか、無理だけはなさらないでください」
「エリアス様も。冷たい石の部屋ばかりで、お身体を壊されませんように」
エリアスは、サヨを王宮へ連れ去ろうとはしなかった。
彼女の十七年の営みを、この食堂という生きる場所ごと愛し、守り抜くと誓ってくれた。その深く静かな愛情の境界線が、サヨの胸の奥を今もじんわりと温め続けていた。
「必ず、また来ます。……次は、こんな箱に隠れるような真似はせずに」
エリアスは少しだけ困ったように微笑むと、夜明けの霧の中へ、足音もなく溶けていった。
サヨは、その大きな背中が見えなくなるまで、裏口の木戸に寄りかかって静かに見送っていた。
厨房に戻り、かまどに火を入れようとしたサヨは、ふと足を止めた。
いつもなら、壁際で石像のように立ち尽くして警戒任務に就いているはずのシオンが、客席のテーブルの丸椅子に、ちょこんと腰を下ろしていたのだ。
シオンは、自分の両手を見つめていた。
数日前、ミラから渡された花の香りのする塗り薬。それをすり込んだ指先は、いつもより少しだけ血色が良く、柔らかな艶を帯びている。
「おはよう、シオンちゃん。……お茶、淹れようか?」
サヨが優しく問いかけると、シオンはハッとして立ち上がろうとした。
しかし、昨夜エリアスから直接「任務より休むことを優先しろ」と命じられていたことを思い出したのか、迷った末に、再びゆっくりと椅子に座り直した。
「……いただきます」
それは、シオンが初めて、誰の命令でもなく自分から「何かを口にしたい」と意思を示した瞬間だった。
サヨが温かい薬草茶を淹れてシオンの前に置いた時、奥の小部屋から、目をこすりながらルカが起きてきた。
「おはよう、サヨさん。……あ、シオンさん」
ルカは、シオンが椅子に座って湯気の立つコップを両手で包み込んでいるのを見て、パッと顔を輝かせた。
彼はとことこと歩み寄ると、小さな手で薬草茶の入った木の小壺を持ち上げ、背伸びをするようにしてシオンのコップに、とくとくとお茶を注ぎ足した。
「シオンさん、これ、すごく温まるんだよ。いっぱい飲んでね」
「ルカ殿下……いえ、ルカ様。私にそのようなお気遣いは……」
「いいの。僕が、そうしたいから」
かつて王宮で、心を殺してただ正解を待ち、ケアされるだけの存在だったルカが。
今こうして、自分から誰かの冷えた手を温めようと、真っ直ぐに気遣いを向けている。
シオンは、コップから伝わる熱と、ルカの無邪気な優しさに触れ、胸の奥で何かが静かに軋むのを感じた。
ふと、かまどの方から、出汁の優しい匂いが漂ってきた。
シオンはコップを持ったまま、サヨが火にかけている鍋の湯気をじっと見つめた。
そして、自分でも驚くような、小さな声で尋ねた。
「……女将。その鍋は、あとどれくらいで完成するのですか」
サヨは目を丸くした。
シオンが、任務の状況報告でも危険度の確認でもなく、ただの「食事の出来上がり」を気にしたからだ。
「そうねえ。あと二十分くらい、ゆっくり煮込んだら美味しくなるわ。……お腹が空いた?」
「いえ……空腹かどうかは、まだ自分でもよく分かりません」
シオンは、コップの縁を親指でそっと撫でた。
「ただ……出来上がるのを、待っていたいと思いました」
美味しい匂いを嗅ぎながら、温かいお茶を飲んで、ただ待つ。
効率も、任務の成果も関係ない。
それは彼女にとって、ひどく無駄で、なぜか満たされる時間だった。
(明日を待つ理由に、なるから)
いつかサヨが言った言葉が、頭の中に蘇る。
今日と同じように任務をこなし、ただ命を消費するだけの影であった自分には、無縁の言葉だったはずだ。
それなのに今、温かいお茶を飲みながら鍋の湯気を見つめていると、明日の朝もまた、こうしてこの匂いを嗅ぎたいと思っている自分がいた。
それは紛れもなく、感情を殺してきた影の女が、初めて見つけた「明日を待つ理由」だった。
その日の昼下がり。
客足が途絶えた灯火食堂に、ふらりと長身の青年が現れた。
深い色のローブを纏った、王国魔術師団長ノアだった。
「ノア君。いらっしゃい」
「……結界の、定期点検」
ノアは相変わらずの寡黙さで短く告げると、店の入り口、裏口、そしてルカのいる奥の小部屋の境目に施された見えない警戒の結界に触れ、魔力を編み直していく。
シオンは、ノアのその無駄のない洗練された魔力操作を、壁際から静かに見つめていた。
やがて点検を終えたノアに、サヨがいつものように少し甘めのクッキーと温かいお茶を出した。
ノアはそれを静かに口に運び、ルカの頭を一度だけ撫でた。
「よく、眠れているか」
「うん。ノアさんの灯りがあるから、夜も怖くないよ」
「……そうか。それは、いい」
ノアは小さく頷き、立ち上がった。
そのまま帰るのかと思いきや、彼は壁際で静かに待機しているシオンの方へ、音もなく歩み寄った。
シオンは警戒して身を強張らせたが、ノアは彼女の足元に、小さな淡い光を放つ魔石のようなものをコトンと置いた。
「……眠っていないな」
ノアがぽつりと呟く。
シオンは無表情のまま答えた。
「任務に支障はありません。私の休息は……」
「支障が出る前に、眠るんだ」
「お言葉ですが、私は護衛対象ではありません。そのようなお気遣いは無用です」
「……眠れない者は、対象だ」
ノアはそれだけ言うと、短く息を吐いた。
シオンは、足元でチカチカと不器用に明滅する小さな灯りを見つめた。
自分が、ルカと同じように「守られ、安らぎを与えられる側」に含まれたこと。
影として生きてきた彼女の常識が、また一つ、静かに塗り替えられていく。
ノアは店を出ていこうとして入り口の木戸に手をかけた瞬間、ふと動きを止め、振り返った。
その視線は、サヨでもルカでもなく、虚空のどこか遠くを見つめているようだった。
「……サヨさん。あの時の、蜜水」
「え?」
サヨは、ルカが王宮から逃げてきた直後にノアが調べた、あの毒見をすり抜けた最高級の食材たちのことを思い出した。
「残っていた、ごく薄い魔力の痕跡。……あれを、もう一度きちんと読みたい」
「罠じゃ、なかったの?」
「罠じゃない」
ノアの瞳に、静かだが強い光が宿った。
「あれは、見つけてほしくて残された……ひどく震えている、指紋だ」
その言葉の意味を、サヨもシオンも、すぐには理解できなかった。
だが、ノアはそれ以上何も語らず、「また来る」とだけ言い残して、冷たい風の吹く街道へと去っていった。
王宮の食卓の裏側で、声なき声を上げていた誰かの存在。
完璧に見えた暗殺の仕組みの中に残された、小さな綻び。
王都へ戻るエリアスの足跡を追うように。
見えない陰謀の糸を解きほぐすための歯車が、この小さな食堂を起点にして、今、静かに回り始めていた。




