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第37話 離したくありませんでした

ミラが運び込んだ巨大な木箱。

 その中から、緩衝材の藁を肩に乗せて立ち上がったのは、この国の王弟エリアスだった。


「エリアス、様……!?」


 サヨが驚きのあまり声を出せずにいると、カウンターの奥から小さな足音が駆け寄ってきた。


「エリアス叔父様!」


 ルカだった。

 目を丸くして駆け寄ってくるルカを見て、エリアスは大きな体で木箱から静かに降り立った。


「ルカ。元気そうだな」


 エリアスの顔が、ふっと柔らかく崩れた。

 王宮の離宮で、食事を恐れ、ただ死を待つように横たわっていた青白い顔の王太子は、もうここにはいない。

 少し頬に肉がつき、自分の足で真っ直ぐに駆け寄ってくる健康的な少年の姿があった。

 エリアスは片膝をつき、ルカの肩を抱いてその温もりを確かに確かめた。


 その時、壁際に控えていたシオンが、音もなくエリアスの足元に進み出て、深く片膝をついた。


「王弟殿下。数日前、王都の密偵と思われる者が浮浪者に扮して接触を図りました。ルカ殿下との距離は完全に遮断し、退散させましたが、周囲の警戒レベルを一段階引き上げて——」

「シオン」


 早口で報告を始めたシオンを、エリアスは静かな声で制した。


「報告は後でいい。今は休め」

「……え?」


 シオンは、無表情な顔のまま、わずかに首を傾げた。

 王弟殿下の極秘の訪問。密偵として、最優先で状況報告を行うのが彼女の「機能」であるはずだ。任務より休息を命じられるなど、彼女の教本には存在しなかった。


「お前が完璧にここを守ってくれていることは、ルカの顔を見ればわかる。だから今は、自分の身体を休ませなさい」

「ですが、私は……」

「いいから。サヨ殿の作ってくれたものを食べて、座って休むんだ」


 エリアスはそれ以上言わず、シオンの頭をポンと軽く叩いた。

 シオンは激しく戸惑ったまま、どうしていいか分からず、立ち尽くしてしまった。


 サヨは、そのやり取りを見てハッとした。

 エリアスは、シオンの有能さを買いながらも、彼女を単なる使い捨ての「道具」や「影」としては扱っていないのだ。

 王弟という立場で彼女に命令を下せるからこそ、あえて任務を止めさせ、人としての休息を与えようとしている。


(この人は、やっぱり昔から何も変わっていないわ)


 十七年前、王都の政争に巻き込まれ、傷だらけでこの食堂に逃げ込んできた若い青年。

 あの時も彼は、自分の命が危うい状況でありながら、サヨという一人の平民の暮らしを気遣い、敬意を持って接してくれた。


「エリアス様。お洋服に、藁がたくさんついています。奥で払いますから、こちらへ」

「あ、ああ。すまない、サヨ殿」


 サヨはルカの相手をシオンに任せ、エリアスを厨房の裏手にある小部屋へと案内した。

 そこは、普段サヨが帳簿をつけたり、少し仮眠を取ったりするだけの小さな部屋だ。



 扉を閉め、二人きりになった空間で、サヨはエリアスの着古した平民の服から藁を払った。


「こんな格好で、本当に驚きました。それに、護衛もつけずに一人でいらっしゃるなんて」

「目立てば、それだけここを危険に晒しますから。それに……」


 エリアスは自嘲気味に笑い、部屋の小さな丸椅子に腰を下ろした。


「この粗末な服を着て、暗い箱の中で揺られていると、あの夜を思い出しました」

「あの夜?」

「十七年前です。すべてを失い、追っ手から逃れて、雪の中であなたの店の灯りを見つけたあの夜を。……私はまた、こうしてあなたに助けられている」


 エリアスは、出された温かい薬草茶の入った木のコップを、両手で大切そうに包み込んだ。


「王宮で、ガイウスの施療記録を探る動きがありました。ユリウスが裏で手を回していますが、疑念を持った者がいるのは確かです。ルカの生存を確信したわけではありませんが、手探りでこのリーベルを嗅ぎ回り始めています」


 先ほどの密偵の動きも、その一環だろう。

 サヨが表情を引き締めると、エリアスはサヨを見上げて静かに首を振った。


「心配はいりません。ここを戦場にするつもりはない。ルカを、ただのルカでいさせたいという思いは変わりません。……あなたから、この店の日常を奪うような真似だけは、絶対にさせない」


 その声には、国の実権を握る王弟としての、揺るぎない覚悟があった。

 だが、次に出た言葉は、為政者のそれではなく、一人の男としての切実な響きを持っていた。


「手紙にも書きましたが……」


 エリアスは、木のコップを机に置き、ゆっくりと立ち上がった。

 サヨと向かい合い、その真っ直ぐな瞳で見つめてくる。


「王宮で書類に向かっている時。夜、冷たい石壁の部屋で一人でいる時。……あなたが無事かどうか、自分の目で確かめないと、どうしても落ち着かなかった」

「エリアス様……」

「あなたの淹れたお茶の香りが、あなたが鍋をかき混ぜる音が、どうしようもなく恋しかった。……王弟としての立場も、分別も忘れて、こうして木箱に隠れてまであなたに会いに来てしまうほどに」


 エリアスは、サヨのすぐ目の前まで歩み寄った。

 背が高く、肩幅の広い彼が目の前に立つと、小さな部屋はさらに狭く感じられた。

 けれど、彼から放たれるのは威圧感ではなく、ただ不器用なほどに真っ直ぐな、熱を帯びた愛情だった。


 エリアスは、ゆっくりと両手を少しだけ前に出し、そこで動きを止めた。


「……抱きしめても、よろしいですか?」


 彼は決して、強引にサヨの身体を引き寄せようとはしなかった。

 王族という絶対的な権力を持っていながら、一人の女性であるサヨの意思を何よりも尊重し、許可を求めたのだ。


 サヨの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

 前世で、女性としての価値を否定され、自己肯定感をすり減らしていた自分。

 この異世界で十七年間、ただ黙々と鍋を煮込み、誰かの背中を見送るだけだった自分。

 そんな自分を、こんなにも大切に、壊れ物を扱うように愛し、求めてくれる人がいる。


 サヨは、言葉の代わりに、小さくこくりと頷いた。


 その瞬間、エリアスの大きな腕が、サヨの身体をすっぽりと包み込んだ。

 温かくて、厚い胸板。微かに震えている強い腕。


「……離したくありませんでした」


 エリアスは、サヨの肩に顔を埋めるようにして、万感の想いを込めて囁いた。


「王宮にいる間、ずっと……このまま、あなたを王都へ連れて帰って、私の手の届く場所で、誰にも触れさせずに閉じ込めてしまいたいと、そんな身勝手なことばかりを考えていました」

「……」

「けれど、それではいけない。あなたの十七年を、あなたが救ってきた人々の灯りを、私が奪うことなど許されない。……だから私は、あなたを所有しない。ただ、こうしてあなたが生きて、笑っている場所を、全力で守り抜くと誓います」


 その言葉は、彼なりの究極の愛情表現だった。

 サヨを愛しているからこそ、彼女の生きる世界ごと愛し、尊重する。


 サヨは、エリアスの背中にそっと両手を回した。

 ただの食堂の女将と、国の行く末を担う王弟。

 決して交わるはずのなかった二つの運命が、小さな食堂の裏部屋で、静かに、けれど確かに重なり合っていた。

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