第36話 ミラは影に感情を乗せさせる
浮浪者に扮した密偵カイが、サヨのスープの温かさに動揺して逃げ帰ってから数日が過ぎた。
灯火食堂の日常は、表向きには何事もなかったかのように、穏やかな出汁の匂いとともに流れていた。
シオンは今日も、灰色のワンピースに真っ白なエプロンという質素な出立ちで、完璧な給仕として店内を立ち回っていた。
客の注文を瞬時に記憶し、絶妙なタイミングで空いた皿を下げる。常連客たちに向けられるその愛想の良い笑顔と無駄のない動きは、もはやこの食堂の立派な看板娘と呼べるほどに店に馴染んでいるように見えた。
カラン、と。
昼下がりの落ち着いた時間帯に、カウベルが軽やかに鳴った。
現れたのは、ロッソ商会の大商会長、ミラだった。
今日は華美なドレスではなく、上質な生地ながらも動きやすい商人の服を着ている。手には、食堂への定期的な食材の納品と、備品が入った布包みが抱えられていた。
「サヨさん、こんにちは。頼まれていた品を持ってきたわよ」
「ミラちゃん、いつも悪いわね。ありがとう」
サヨがカウンター越しに微笑むと、シオンが音もなくミラのテーブルへ近づき、温かいお茶を置いた。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
「ありがとう、シオンちゃん」
ミラは、完璧な給仕の笑顔を浮かべるシオンにお茶の礼を言いながら、商人の鋭い目で彼女の全身を素早く観察した。
シオンの身なりや立ち振る舞いは、宿場町の食堂で働く給仕として、これ以上ないほど完璧だった。目立たず、清潔で、客に不快感を与えない。
だが、ミラがお茶を受け取った瞬間に感じたのは、その「完璧すぎる笑顔」の裏にある、ひどく冷たい異物感だった。
客足がすっかり落ち着き、店内が静かになった頃。
ミラは、壁際で油断なく待機しているシオンに向かって、ふいに声をかけた。
「シオンちゃん、給仕の仕事はどう? すっかり板についているみたいだけど」
「はい。任務に支障はありません」
シオンは姿勢を崩さず、氷のように冷たく、抑揚のない声で答えた。
「不審者の警戒、客の動線管理、すべて完全に処理しております。接客の際も、相手の警戒を解かせるための最適な表情筋の動きを再現しています。個人の感情は任務の雑音になりますので、完全に殺して制御しております」
「そう。感情を完全に殺しているのね」
ミラはふっと笑い、お茶の入った木のコップをテーブルに置いた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「王弟殿下の密偵としては、あなたは超一流なのかもしれないわ。けれどね、商人として言わせてもらうなら……感情を殺して押し込めるのは、三流のやり方よ」
その言葉に、シオンの無機質な瞳がわずかに見開かれた。
彼女の暗殺や潜入の教本には、感情を押し殺すことこそが至高の技術であると記されている。三流などと評価されたことは、これまでの彼女の人生で一度たりともなかった。
「……三流、ですか。私の給仕としての偽装に、何か不備があったと?」
「ええ、大ありよ」
ミラは真っ直ぐにシオンの目を見つめた。
かつてこの食堂で皿洗いをし、底辺から大商会長にまで這い上がったミラだからこそ持つ、人間の本質を見抜く目だった。
「作り物の笑顔は、どこかで相手に『見えない壁』を感じさせるの。最初は誤魔化せても、毎日顔を合わせる常連さんたちには、いつか必ずその壁が伝わるわ。本当に相手の心を開かせて、安心してもらう『本物の商人』っていうのはね……自分自身の感情もひっくるめて、相手に向き合うのよ」
「感情も、ひっくるめて……」
「そう。自分が心地よいと感じていないのに、相手を心からくつろがせることなんてできないわ」
ミラは立ち上がり、シオンの手元へと視線を落とした。
シオンは思わず手を後ろに引こうとしたが、ミラの視線の方が早かった。
シオンの指先は、毎日熱い汁物の椀を運び、冷たい水で洗い物をしているせいで、わずかに赤く荒れ、小さなひび割れがいくつもできていた。
密偵であるシオンは、訓練によって痛みを完全に麻痺させている。だからこそ、自分の手が荒れていることすら「任務に支障なし」として完全に無視し、手当てを怠っていたのだ。
「痛みを無視して作った笑顔じゃ、この灯火食堂の温かさには絶対に溶け込めないわ」
ミラは鞄の中から、小さな美しい陶器の壺を取り出した。
商会で扱っている、上質な花の油を練り込んだ塗り薬だ。ミラはそれをシオンの荒れた手にそっと握らせた。
「自分の身体を労わって、自分が『心地よい』と感じる状態を作って初めて、本物のいい笑顔が出るの。……感情を殺して痛みに蓋をするのは、一流の商人のやることじゃないわ」
シオンは、手の中の小さな壺を見つめた。
これまで、傷を負えば止血し、毒を受ければ解毒してきた。だが、「心地よくなるため」に薬を塗るという発想は、彼女の頭の中には存在しなかった。
「ミラちゃんの言う通りよ、シオンちゃん」
厨房から、サヨの温かい声が響いた。
サヨはエプロンで手を拭いながら、シオンの方へ歩み寄ってくる。
「ここは戦場じゃないんだから、常に気を張って、痛みを隠す必要はないの。あなたの心も身体も、一緒に休ませていい場所なのよ」
「女将……ですが、私は……」
シオンが戸惑いを見せた時、カウンターの隅から、静かな気配が近づいてきた。
ルカだった。
ルカは王宮にいた頃、常に「立派な王太子」として振る舞うことを求められていた。どんなに胃が痛くても、どんなに食事が怖くても、周囲の大人たちを失望させないために感情を殺し、平気なフリをして作り笑いを浮かべていた。
だからこそ、ミラの言葉が、ルカ自身の胸にも深く突き刺さっていた。
ルカはシオンを見上げ、彼女のエプロンの裾をそっと小さな手で握った。
「シオンさん……痛いのは、我慢しなくていいんだよ。ここは、怖い顔をして隠さなくても、誰も怒らないから」
ルカの言葉に、シオンの胸の奥深く、氷で閉ざされていた空洞が、かすかに震えた。
王宮で心を殺されかけていた小さな子どもが、今、自分と同じように心を殺そうとしている影に向かって、痛みを認めていいのだと教えてくれている。
「……」
シオンはゆっくりと息を吐き、ミラから渡された壺の蓋を開けた。
ふわりと、春の花のような甘く優しい香りが漂う。
シオンは指先にほんの少しだけ薬を取り、荒れた自分の手の甲にそっと塗り込んだ。
薬が肌に馴染む温かさと、鼻をくすぐる花の香り。
それは、痛みを感じないようにしていた彼女の神経の奥に、忘れかけていた「安らぎ」という感覚を静かに呼び覚ました。
「……肌の保護に、極めて効率的な処置です」
シオンは口ではそう言って強がった。
だが、その顔には先ほどまでの「完璧な給仕の仮面」ではない、ほんのわずかな戸惑いと、血の通った人間らしい柔らかい表情が浮かんでいた。
「ええ、とても効率的よ」
ミラが満足げに笑い、サヨも優しく目を細めた。
ルカは嬉しそうに、シオンのエプロンの裾から手を離した。
完璧な密偵として生きてきたシオンの胸の奥で、「三流」という言葉と、温かい花の香りが、張り詰めていた氷の壁を静かに溶かしていく。
感情をひっくるめて生きるという、人間にとって当たり前で、そして最も難しい仕事が、彼女の中で今、少しずつ始まろうとしていた。
その時だった。
「さて。シオンちゃんの装備も整ったことだし……実はね、サヨさんにもう一つ、商会から『特別で、極秘の届け物』があるのよ」
「え? 私に?」
ミラが裏口に向かってパンッと手を鳴らすと、商会の屈強な男たちが二人かりで、ずっしりと重そうな大きな木箱を運び込んできた。
「じゃ、私の仕事はここまで。ゆっくり中身を確かめてね」
ミラは意味深なウインクを残し、足早に店を去っていく。
サヨが不思議そうに木箱に近づこうとした瞬間、シオンがサッとサヨの前に立ち塞がった。
「女将、下がって。箱の中に人間の気配が……」
そこまで言いかけて、シオンはハッとして構えを解いた。
「……いえ。この気配は」
内側からカコン、と留め具が外れる音がして、木箱の蓋がゆっくりと押し開けられた。
中から姿を現したのは、緩衝材の藁を肩に乗せ、平民のような質素で粗末な服を着た、大柄な男。
端正な顔立ちに、どこか申し訳なさそうな、けれど隠しきれない熱を帯びた瞳。
「……驚かせてすまない、サヨ殿」
サヨは目を丸くし、完全に言葉を失った。
「エリアス、様……!? どうして、箱の中から……」
王弟という国の最重要人物である彼が、身分も体裁も捨てて、荷物に紛れてまでこんな宿場町へやってきた理由。
エリアスは、箱から静かに足を踏み出すと、真っ直ぐにサヨを見つめて言った。
「どうしても……あなたの無事を、この目で確かめたくて」




