第33話 レオンは入口に立つ
ここ数日、灯火食堂の周囲には、これまでになかった奇妙な気配が漂い始めていた。
通りに面した曇った窓ガラスの向こう、目的もなく街道を往復する見慣れない平民風の男たち。
彼らは時折、立ち止まっては店の様子をそっと覗き込んだり、買い出し帰りの常連客に「あの店に最近、妙に品のある見習いの子どもが入らなかったか」と、世間話を装って探りを入れていた。
神殿か、あるいは王宮の別派閥か。
ガイウス医師長の不自然な施療記録を追って、ついにこの宿場町まで嗅ぎ回る者が現れたのだ。
シオンは、愛想の良い給仕として店内を忙しく動き回りながら、そのすべての「探り」を完璧に把握していた。
不審な視線が届きそうな席には、あえて体格の良い常連客を案内する。窓のブラインドの角度をさりげなく調整し、拭き掃除をするふりをして死角を作る。
カウンターの隅にいるルカの姿が、絶対に外から見えないよう、彼女は一つの空間を完璧な要塞として管理し続けていた。
ルカに無用な恐怖を与えないための、影としての徹底的な配慮だった。
カラン、カラン。
昼のピークが一段落した頃、少し大きめのカウベルの音が鳴り、一人の男が店に入ってきた。
仕立てのいい軍服ではなく、地味な茶色の革ベストに、ひどく着古した外套を羽織っている。
しかし、その外套の下に隠しきれない圧倒的な体躯と、周囲を無条件で威圧するような鋭い眼光。そして、歩くたびに微かに響く重い足音。
王国騎士団長、レオン・ガルドだった。
大っぴらに団長として警備を行えば、かえって周囲に異変を知らせることになる。だから彼は、かつてのように一人の客として、見回りを兼ねてふらりとやってきたのだ。
「いらっしゃい、レオン。今日も一段と冷えるわね」
厨房からサヨがいつもの温かい笑顔で迎えると、周囲を威圧していたレオンの強面が、まるで飼い主に褒められた大型犬のように一瞬で緩んだ。
「サヨさん! 近くの警備任務が終わったので、寄らせてもらいました! いつもの大盛りスープと、パンをお願いします」
レオンは、サヨに対してだけは常に礼儀正しく、どこか嬉しそうな声音で注文をした。
彼がどっかりと腰を下ろしたのは、厨房からは一番遠い、表の入り口に最も近いテーブル席だった。
シオンが、音もなくレオンの元へと近づき、温かいお茶の入った木のコップを置いた。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
いつもの、花が咲くような完璧な給仕の笑顔。
だが、お茶を置いたその一瞬、二人の視線が真っ直ぐにぶつかり合った。
シオンは、男が放つ圧倒的な武人の気配と、自分に向けられた油断のない目から、彼がエリアス殿下の信頼する王国騎士団長であると察した。
レオンもまた、シオンの重心の低さと、お茶を置く指先に刻まれた暗器使い特有のわずかなタコを見て、瞬時に彼女が「王弟の影」だと見抜く。
一触即発の緊張感が走るかと思われたが、レオンはふっと不敵に笑い、お茶をごくごくと飲み干した。
「……警戒しなくていい。サヨさんの店で剣を抜く気はない。俺はただの、腹を空かせた客だ」
低く、けれどシオンだけに聞こえる武人としての声でそう言うと、レオンはそれ以上彼女を警戒する素振りを見せず、運ばれてきた大盛りのスープにスプーンを入れた。
レオンは入り口の席に座り、美味そうにスープをすすりながらも、その鋭い視線は開いた扉の向こうの街道を自然に捉えていた。
店の前をうろついていた見慣れない男たちが、店内に座るレオンの姿と目が合った瞬間、あまりの威圧感に顔を青ざめさせ、そそくさと路地裏へ退散していく。
剣を抜くわけでも、声を荒らげるわけでもなく、ただそこに座っているだけで、彼は完璧な防壁として機能していた。
ルカはカウンターの隅から、そのレオンの背中をじっと見つめていた。
国で一番強いはずの騎士団長が、偉ぶることもなく、ただ静かに入口を守るようにして座り、サヨのスープを嬉しそうに食べている。
王宮の騎士たちは常に命令で動き、冷たい顔をして立っていた。けれど、目の前の背中はとても大きく、そして温かかった。
「ルカ。ちょっとこっちへ来いよ」
レオンがスープの椀を空にして、ルカに向かって優しく手招きをした。
ルカは少しビクッとしながらも、椅子から降りてレオンのテーブルへと歩み寄った。
「ルカ。サヨさんのご飯、ちゃんと食べられてるか?」
「……うん。少しずつだけど、お粥を食べられるようになったよ」
「そうか、偉いじゃないか」
レオンは豪快に笑い、大きな手でルカの頭を乱暴に、けれど怪我をさせないよう優しく撫で回した。
ルカは少し目を細め、その大きな手のひらの温もりを受け入れた。
「俺も昔は、そこの裏路地で残飯を漁るようなガキだったんだ。親もいなくて、毎日腹を空かせて、死にそうな顔をしてた。サヨさんの店を見つけて、泥棒しようとしたこともありましたね」
レオンは厨房で忙しく立ち働くサヨの背中を、ひどく愛おしそうに見つめながら言った。
ルカは目を丸くした。
あの立派な騎士団長に、自分と同じように飢えて、泥まみれで、どうしようもなく弱かった過去があるなんて想像もしていなかったからだ。
「そしたらサヨさんに、こっぴどく叱られてな。『盗むなとは言わない。でも、腐ったものを食べて死ぬのは絶対に許さない。皿を洗いなさい。働いた分は、ちゃんと温かいご飯を食べさせるから』って。……それから毎日、俺はここで必死に皿を洗って、美味い飯を食わせてもらって、大人になったんだ」
レオンは、ルカの小さな肩にポンと手を置いた。
「ここは、そういう場所だ。過去がどうだろうと、誰かに追われていようと関係ない。ただ、腹が減った奴に温かいものを食わせて、生きて帰す。だから、お前も安心してここにいろ」
ルカは、レオンの言葉を胸の奥で静かに噛み締めた。
王宮の大人たちは、義務と命令だけで動いていた。けれどレオンは、誰かに命じられたからではなく、自分の意思で、サヨさんへの感謝と信頼だけで、この店を、そして自分を守るためにそこに立っているのだ。
やがて、レオンは席を立ち、代金をカウンターに置いた。
「サヨさん、ごちそうさまでした! 今日も最高に美味かったです!」
「ええ、気をつけてね、レオン」
レオンは外套を羽織り、店を出ようとした際、入り口のそばに控えていたシオンの横でピタリと足を止めた。
シオンは無感情な瞳で彼を見上げる。
「……なあ、あんた」
レオンは、シオンの細い肩に視線を落とし、静かに言った。
「守るってのは、敵の首を刎ねたり、刃を抜くことだけじゃない。……腹を空かせた奴が、何の心配もなく、安心して飯を食える入口を作ってやること。それも、立派な『守り』だ」
シオンは、小さく瞬きをした。
彼女の暗殺や護衛の教本に、そのような概念は一切記されていなかった。
「あんたがそこに立って、愛想よく客を迎えてるだけで、救われてる奴がもういるかもしれない。……殿下の命令だけじゃなく、たまには自分の目で、この店の湯気を見てみろよ」
レオンはそれだけ言うと、シオンの頭を軽く一度だけぽんと叩き、大きな背中を揺らしながら街道へと去っていった。
カラン、カラン。
閉まった扉の向こうから、冷たい風の音が聞こえる。
しかし、不審な視線や探りの気配は、すっかりと消え失せていた。
シオンは、自分の立ち位置である入り口のすぐ横の壁を見つめた。
これまでの任務において、入り口とは「防衛ライン」であり、敵を「排除するための境界」でしかなかった。
けれど、レオンの言う守りとは、敵を殺すためのものではなく、中にいる人々が安心して息をつくための空間を維持すること。
シオンは、給仕としてエプロンの前で組んだ自分の両手を見つめた。
すぐに理解できるような、甘い言葉ではない。
けれど、客を迎え入れるために立つこの場所が、ほんの少しだけ、今までとは違う重さを持って、彼女の身体に馴染み始めていた。




