第32話 手紙は、明日を待つ理由になる
昼の賑やかな時間が引き、灯火食堂にはゆっくりと穏やかな午後の光が差し込んでいた。
サヨはカウンターの中で、客が使った木の器を洗い桶の清水ですすぎ、乾いた布巾で丁寧に水気を拭き取っていた。
ルカはその少し隣で、サヨから手渡された清潔な布巾を、小さな手で一生懸命に端と端を合わせて畳んでいる。自分で選んだ青いシャツの袖をまくり、真剣な眼差しで作業に向き合うその姿には、かつて王宮の離宮で怯えきっていた頃の面影はすっかり消えていた。
シオンもまた、客席のテーブルを一切の無駄のない動きで拭き上げ、椅子を整えていた。
昨日、治癒師長のリナから「心が麻痺している」と指摘されたが、彼女のプロフェッショナルとしての立ち居振る舞いは少しも揺らいでいない。完璧な給仕として、店の空気に自然に溶け込んでいた。
コン、コン。
静かな店内に、裏口の木戸を叩く控えめな音が響いた。
サヨが手を拭って鍵を開けると、そこにはミラ商会の使いの男が立っていた。男は周囲を一度油断なく見回すと、サヨの手に小さな革袋を素早く手渡し、無言で去っていった。
厨房に戻り、革袋の中から中身を取り出したサヨは、思わず小さく目を見開いた。
中から現れたのは、二通の封書だった。
一通は、サヨ宛て。見覚えのある王弟エリアスの封蝋が押されている。
そしてもう一通の、目立たないよう細工はされているが質の良い羊皮紙の表書きには、はっきりと『ルカへ』と記されていた。
「ルカ、ちょっとおいで」
「なあに、サヨさん」
布巾を畳み終えたルカが、とことことサヨの元へ歩み寄ってくる。サヨは微笑みながら、彼の小さな手のひらの上に、ルカ宛ての封書をそっと乗せた。
「王都から、ルカに手紙よ」
「え……? 僕に……?」
ルカは、自分の手の上の封書を見つめたまま、完全に固まってしまった。
王宮にいた頃、彼が受け取る書状というものは、すべて国政に関わる公的な書類か、高位貴族たちからの建前ばかりの挨拶状だった。それらはすべて、ルカの目に触れる前に家庭教師や側近たちによって検閲され、一人の子どもとして手紙を受け取る経験など、一度たりともなかったのだ。
「開けてごらんなさい。ルカのために書いてくれた手紙だもの」
サヨに優しく背中を押され、ルカはおずおずと、壊れ物を扱うような手つきで封を開け、中の便箋を取り出した。
そこに並んでいたのは、ルカがよく知る、けれど王宮の公式行事では決して見せないような、震えるほど優しい筆跡だった。
『ルカへ。
サヨ殿からの知らせで、あなたの様子をいつも聞いています。
あなたが毎日少しずつ粥を食べ、夜はぐっすりと眠れていると知り、私たちはこれ以上ないほどに安心しました』
それは、王都に残してきた両親——国王と王妃からの親書だった。
『あなたが自分で青いシャツを選び、木の椀を洗ったことも聞きました。
王宮の窮屈な場所を離れ、あなたが自分の足で歩もうとしていることを、私たちは王と王妃としてではなく、あなたの父と母として、心から喜び、誇りに思っています。
焦る必要はありません。今はただ、灯火食堂の温かい湯気の中で、たくさん眠り、たくさん食べてください。
あなたがいつか、また私たちに元気な顔を見せてくれる日を、いつまでも待っています。
父、母より』
ルカは、何度も何度も、その文字を小さな指先でなぞった。
王宮の大人たちは、彼に「完璧な王太子としての成果」しか求めなかった。期待に応えられず、食べられなければ、父や母を悲しませてしまうのだと、ずっと自分を責めていた。
けれど、両親は、彼が王太子として立派に振る舞うことではなく、灯火食堂で一歩ずつ進んできた、大したことのないささやかな変化を喜んでくれていた。
自分のことを見守り、自分の選択を誇りだと言ってくれる家族が、遠い王宮の中にいる。
「……父上、母上……」
ルカは便箋をきゅっと胸に抱きしめると、嬉しさと誇らしさで、その白い頬をほんのりと林檎のように赤く染めた。
一方、サヨもまた、カウンターの奥でエリアスからの手紙を開いていた。
『サヨ殿。変わりなくお過ごしでしょうか。
同封した手紙は、ルカへの何よりの薬になると思い、忍ばせました。
王宮内では、ガイウスの施療記録に違和感を抱いて探りを入れている者が確かに存在しますが、ユリウスが裏で完璧に処理を進めています。しばらくはシオンの警戒のもと、そちらの日常を続けてください』
前半には、冷徹な為政者としてのエリアスの言葉が並んでいた。
だが、二枚目の便箋へと視線を移した時、サヨの指先がピタリと止まった。
少しだけ、文字の筆圧が強くなっている気がした。
『王宮の静寂の中で書類に向かっていると、ふと、あなたの店の湯気や、かまどの火の温かさを思い出します。
冷たい石壁に囲まれたこの執務室で、私が思い出すのは、国益の数字ではなく、あなたが淹れてくれたお茶の温もりと、あなたが厨房に立つ姿ばかりです。
あなたの店の灯りを思い出す夜が増えました。
どうか、無理だけはしないでください。
私が直接、あなたの無事を確かめに行けないことが、これほど堪えるとは思いませんでした』
サヨは、手紙を持ったまま、息をすることすら忘れていた。
恋愛感情を強引にぶつけてくるような、激しい言葉ではない。王弟という身分を盾に、所有を迫るような不躾な響きでもない。
ただ、会えない日々の中で、一人の男としての切実な想いが、静かに、けれど確実に募っていることが、便箋の向こうから痛いほどに伝わってきた。
前世では、夫から女性として見られることなどとうに諦め、家にいるだけの、消費されるだけの存在として冷遇され続けてきた。自分の心の奥底には、誰かに必要とされることを諦めた、冷たい蓋がしてあったはずだった。
それなのに、この国の誰よりも高貴な男性が、自分のいる場所を、自分の淹れた茶を、夜の静寂の中でこれほどまでに切望してくれている。
サヨの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように鳴った。
彼女は慌てて手紙を折りたたむと、熱を持った自分の頬を隠すように、エプロンのポケットの奥深くへとしまい込んだ。
壁際に控えていたシオンは、その様子を一切の感情を交えない無機質な瞳で見つめていた。
彼女の視線は、サヨの赤くなった耳元から、再びルカへと移る。
ルカは先ほどから、両親からの手紙を宝物のように何度も読み返し、愛おしそうに胸に抱きしめ続けていた。
シオンには、その少年の姿が理解できなかった。
ただの文字が書かれた羊皮紙の束。そこに書かれているのは、戦況の報告でも、次なる任務の命令書でもない。ただの、他愛のない言葉の羅列だ。
それなのに、なぜこの少年は、これほどまでに脆く、温かい顔をしてそれを抱きしめているのだろうか。
「……シオンさん」
ふと、ルカが顔を上げ、隣に立つシオンを真っ直ぐに見上げた。
「シオンさんには、手紙は来ないの?」
「手紙、ですか」
シオンは、抑揚のない声で答えた。
「任務書なら、定期的に連絡員から届きます。次なる潜入先や、警戒地域の指定、標的の動向などが記されたものです」
「……それは、手紙じゃないと思います」
ルカは、小さく首を振った。
青いシャツの胸元をそっと押さえながら、彼はシオンの無機質な瞳を見つめ返した。
「手紙はね……明日を待つ理由になるのよ」
サヨも輪に入りそっとシオンに伝える。
明日を待つ理由。
その言葉を聞いた瞬間、シオンの中で、何かが小さく機能停止したかのような奇妙な感覚が走った。
彼女にとって、明日とは待つものではなかった。
ただ、今日と同じように任務を遂行し、プロとして完璧に自己管理を行い、影として消費していくだけの、記号のような時間。明日が来ることへの期待も、理由も、心を麻痺させた彼女の人生には存在し得なかった。
「……理解できません。任務書も、明日行動するための理由になります」
シオンは淡々と答えたが、ルカはそれ以上彼女を否定することはせず、「うん」とだけ言って、また自分の手紙へと視線を落とした。
味も、休息も知らず、自分の心の麻痺にすら気づいていない影の少女。
その少女の固く閉ざされた世界の境界線に、ルカの放ったささやかな言葉が、小さな、けれど確かな楔となって打ち込まれた気配をサヨは微かに感じていた。
外では、夕暮れの冷たい風が吹き始めていた。
けれど、灯火食堂の厨房には、かまどの温かい余熱と、二通の手紙がもたらした静かな熱が、いつまでも優しく満ち満ちていた。




