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第31話 リナは影の脈を見る

昼の喧騒が少しずつ引いていく灯火食堂で、シオンは今日も完璧な給仕として立ち回っていた。


 空いた皿を下げるタイミング、新しい客を案内する動線、お茶を注ぐ手つき。どれをとっても無駄がなく、流れるように滑らかだ。

 常連客たちはすっかり彼女に馴染み、「シオンちゃん、今日もよく働くねえ」と声をかけては、彼女の咲きほころぶような愛想のいい笑顔に癒されていた。


 だが、その笑顔の裏側で、シオンの瞳は常に店内と外の路地の気配を冷徹に計算し続けている。

 誰の視線がどこを向いているか。ルカのいる厨房の奥へ意識を向けている者はいないか。

 プロの密偵として、何時間起きようとも一切パフォーマンスを落とさない身体管理。それを彼女は完全にコントロールし、維持し続けていた。


 カラン、と。

 表の木戸が開く音がして、一人の女性が店に入ってきた。


 豪奢な法衣ではなく、動きやすい落ち着いた平服を着ている。手には往診用の小さな鞄。

 聖女庁の治癒師長、リナ・フェルメールだった。

 表向きは近隣の村で病人を診た帰りに立ち寄ったという体だが、その実、王宮周辺でルカの記録を探る不穏な動きが出始めていることを察知し、自らの目で食堂の安全を確かめに来たのだ。


「先生。こんにちは」


 リナは、厨房に立つサヨを見つけると、ふわりと温かい笑みを浮かべた。


「リナちゃん。いらっしゃい、寒かったでしょう」


 サヨが微笑み返すのとほぼ同時に、シオンが音もなくリナのテーブルへと近づき、温かい薬草茶の入った木のコップを置いた。


「いらっしゃいませ。どうぞ、温まってくださいね」


 シオンは完璧な給仕の笑顔を向けた。

 だが、リナが「ありがとう」と微笑み返してコップを受け取った瞬間。

 二人の視線が交差し、静かな、けれど張り詰めた緊張が空気を震わせた。


 リナの治癒師としての目は、シオンの歩法に一切の無駄な体重移動がないこと、外見からは死角のない完璧な姿勢を維持していることを見抜いていた。

 一方のシオンも、リナが放つただならぬ気配を感じ取っていた。穏やかで慈愛に満ちているように見えて、この女性の目は店内のあらゆる構造を瞬時に把握し、こちらの出方を窺っている。


(……この人は、ただの治癒師ではない)

(……王弟殿下が送ってきたという影。なるほど、優秀な密偵ね)


 言葉を交わすことなく、お互いが相手の底知れなさを測り合う。

 だが、リナはすぐに視線を外し、何事もなかったかのように薬草茶を一口飲んだ。


「美味しい。先生のお茶は、いつも胃の奥がぽかぽかします」


 リナはそう言って一息つくと、厨房の奥の隅に座っているルカの方へ歩み寄った。


「こんにちは、ルカ君。調子はどう?」

「リナさん……こんにちは。うん、今日は、お粥を全部食べられました」


 ルカが少し誇らしげに報告すると、リナは「それはすごいわね」と目を細めた。

 そして、いつものようにかまどの火で自分の両手を温め、冷たさを完全に取ってから、ルカの額や首筋に触れてもいいか確認し、そっと触れた。


「うん、魔力の巡りも落ち着いているわ。顔色もすごく良くなった」


 リナはルカに優しい安心を与えながらも、その視線の端で、壁際に静かに立っているシオンの姿を捉えていた。


 客が少なくなり、本来ならば一息つけるはずの時間。

 シオンの立ち姿には一点の狂いもなく、プロとして肉体の疲労は完全にコントロールされていた。指先の震えもなく、呼吸の数値も乱れてはいない。


 しかし、その「乱れのなさ」こそが、リナにはひどく不自然に映った。

 まるで、血の通った生命ではなく、精密に組まれた機械がそのままそこに置かれているかのような違和感。


 リナはルカから手を離すと、ゆっくりとシオンの方へ歩み寄った。

 シオンは警戒を悟られないよう、給仕としての柔らかな表情を崩さなかった。


「お疲れ様です。お下げするお皿はありますか?」


 シオンが問うと、リナは首を横に振った。


「いいえ。……あなた、少し自分を縛りすぎじゃないかしら」


 リナの声は、どこまでも優しかった。

 だが、その言葉の裏にある「あなたの異常さを見抜いている」という治癒師としての絶対的な確信が、シオンをわずかに戸惑わせた。


「私は給仕として雇われておりますので、完璧に任務をこなすのは当然のことです」

「そうね。でも、人は、脈が乱れてから倒れるのではないわ」


 リナは、シオンの手首にスッと視線を落とした。


「乱れていることに気づかない時が、一番危ないの……あなたの脈は、驚くほど正確で乱れがない。でもそれは、健康だからじゃないわ。自分の身体をただの道具のように、強制的に制御し続けているからよ。心が緊張を解く瞬間を、あなた自身で完全に削ぎ落としてしまっている」


 その的確すぎる指摘に、シオンの顔から一瞬だけ給仕の笑顔が剥がれ落ちた。

 彼女は無機質な、影としての本来の目をリナに向けた。


「お気遣いには及びません。身体管理は完璧です。任務に支障はありませんので」


 氷のように冷たい、感情を切り捨てた声。

 だがリナは、そんなシオンの態度に怒ることも、怯むこともなかった。

 かつて、自分自身が魔力に身体を蝕まれ、生きる機能だけを維持しようとして強がっていたあの頃の自分と、目の前の少女が重なって見えたからだ。


「支障が出てからでは遅いのです」


 リナは、諭すように静かに言った。


「自分の心が麻痺していることに気づけないのは、強いからじゃありません。ただ、自分の心の声を無視しているだけよ。身体が完璧に動いていても、中身が空っぽのままでは、いつか見えないところが折れてしまう。……それがどれほど危ういことか、いつかあなたにも分かる日が来るわ」


 シオンは何も答えず、ただ黙ってリナの目を見つめ返した。


 サヨは、少し離れた場所からそのやり取りを見守っていた。

 かつて、一口のスープも喉を通らず、ただ生きるための人形のようだった病弱な少女が。今こうして、治癒師長として誰かの隠された「心の麻痺」を察知し、その弱さを包み込もうとしている。


 その成長が、サヨにはひどく眩しく、誇らしかった。


 ルカもまた、リナの言葉を聞いてハッとしていた。

 完璧に自己管理され、疲れを見せないシオン。


 でも、彼女は本当は血の通った人間なのに、その人間であることを自分から捨てようとしている。

 自分が王宮で、周囲の期待に応えるために心を殺して「機能」になろうとしていた時の、あの息苦しさを、今のシオンから強く感じていた。


 リナはそれ以上シオンを追及することはせず、「先生、また来ますね」とサヨに微笑みかけ、店を後にした。


 木戸が閉まり、再び静けさが戻った店内。

 シオンは壁際に立ったまま、リナが去った扉の方をじっと見つめていた。


 任務に支障はない。身体は完璧に動いている。

 そう自分に言い聞かせても。


 リナの「中身が空っぽにままでは、いつか見えないところが折れてしまう」と言った言葉が。


 シオンの胸の奥深く、固く閉ざされたはずの空洞の底で、小さな波紋のように広がり、確かな違和感となって残り続けていた。

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