第30話 影の女は、夜の眠りを知らない
灯火食堂に新しい給仕の娘が入ってから、数日が過ぎた。
灰色の質素なワンピースに真っ白なエプロンを身につけたシオンは、すでにこの店に欠かせない風景の一部として、完全に溶け込んでいた。
彼女の働きぶりは、ただの「愛想が良い」という次元をはるかに超え、プロフェッショナルとしての凄みすら感じさせるものだった。
「おい、そこは俺が先に頼んだ席だぞ!」
「あぁ? 俺の方が先に店に入ったんだよ!」
昼のピーク時、荷馬車引きの男たち同士で席を巡る小競り合いが起きそうになった。険悪な空気が漂い、男たちが立ち上がりかけた、まさにその瞬間だった。
「お待たせいたしました、冷たいお水です。本日は大変混み合っておりまして、申し訳ございません。よろしければ、こちらの広いお席でご一緒になられませんか? すぐにお料理もお持ちいたしますね」
シオンが、二人の間に音もなく滑り込んだ。
お盆をスッと差し出すタイミング、柔らかな声のトーン、そして完璧な笑顔。その見事な間合いと、客に一切のプレッシャーを感じさせない完璧な誘導に毒気を抜かれた男たちは、「お、おう……じゃあ相席でいいか」「悪いな、ねえちゃん」と、あっけなく鉾を収めてしまった。
別のテーブルでは、常連の大工が落とした小さな留め具のネジを、彼が気づくよりも早く床から拾い上げ、さりげなくテーブルの端に置く。
「女将さん、シオンちゃんは本当にすごいね。気が利くなんてもんじゃない、最高の給仕だよ」
常連客たちは口々に褒めそやし、店内の空気はいつも以上に穏やかで、滑らかに回っていた。
厨房に立つサヨも、カウンターの隅に座るルカも、彼女の有能さには感心するしかなかった。
だが。
彼女が抱える影の深さが真に浮き彫りになるのは、すべての客が帰り、店の灯りが落とされた夜の時間だった。
「シオンちゃん、今日も一日ありがとう。お疲れ様」
サヨが表の木戸に鍵をかけ、振り返って声をかけた。
客がいた時と変わらない、ピンと背筋を伸ばした姿勢で立つシオンは、「お気遣いには及びません」と小さく頭を下げた。
「奥の小部屋に、シオンちゃん用のベッドを用意してあるからね。今日はもう休んでちょうだい。結界もあるし、ここは安全だから」
「お言葉ですが、私は警戒任務中です。王弟殿下より、皆様の安全を確保するよう命じられておりますので、ここで待機いたします」
シオンはそう言うと、静かに厨房と客席を隔てる壁の方へ歩いていった。
そして、月明かりすら届かない、店内で最も暗い死角となる場所に直接座り込み、壁に背を預けた。
手はエプロンの前で組まれているが、いつでも武器を抜き、一瞬で敵の急所へ飛びかかれる姿勢だ。
「シオンちゃん、そんなところじゃ疲れが取れないわよ。ベッドでちゃんと寝ないと……」
「ご心配なく。密偵の身体管理術において、本日のような低負荷な環境下であれば、七十二時間の不眠状態でも任務水準の低下は起こしません」
シオンは、極めて論理的に、そして淡々と事実だけを告げた。
彼女は無理をしているわけではない。プロの密偵として、自分の身体機能を完全にコントロールし、正常に稼働させているだけなのだ。
「私はただ、任務を遂行するのみです。女将はどうぞ、お休みください」
シオンはそれ以上言葉を発さず、まるで石像のように微動だにしなくなった。
サヨは困惑しながらも、それ以上強く言うことができず、ため息をついて奥の部屋へ下がるしかなかった。
深夜。
ノアの残した小さな結界の光のそばで眠っていたルカは、ふと喉の渇きを覚えて目を覚ました。
そっとベッドを抜け出し、水を飲もうと厨房へ向かった彼の足が、入り口でピタリと止まる。
漆黒の暗闇の中。
壁際に、一つの影が落ちていた。
シオンだった。
彼女はサヨが声をかけた数時間前と、ただの1ミリも姿勢を変えていなかった。
目ははっきりと開かれたまま、暗闇の中で周囲の気配を探っている。呼吸の音すら、注意深く耳を澄まさなければ聞こえないほどに抑制されている。
その姿には、疲労や眠気に耐えているような痛々しさは一切なく、ただ完璧な機械が静かに稼働しているような恐ろしさがあった。
ルカの背筋を、ゾクッとした冷たいものが駆け抜けた。
王宮で、夜も眠れずに暗闇の恐怖と戦っていた自分。誰も信用できず、常に誰かの足音に怯えていた日々。
シオンの姿は、そんなかつての自分の姿と重なって見えたが、彼女は自分と違って、恐怖すら感じていないようだった。
「……シオン、さん」
ルカが恐る恐る声をかけると、暗闇の中の影がわずかに動いた。
「ルカ様。何か御用でしょうか。不審な気配はありませんが」
「ううん、違うの。……暗くて、怖くないの? 眠らないと、嫌な夢を見るの?」
ルカの小さな、子どもらしい問いかけに、シオンは感情の抜け落ちた、冷たい声で答えた。
「恐怖という感情は、任務の妨げになるため抑制しています。夢を見る機能も、浅い睡眠のコントロールによって排除しておりますので、問題ありません」
「……」
それは、ただの事実の報告だった。
自分が人間らしい安らぎを捨てていることに対して、彼女は何の疑問も持っていない。
ルカは言葉を失い、ただ悲しそうに彼女の影を見つめた。
王宮の大人たちは、ルカにも「立派な王太子としての機能」だけを求めていた。心がどんなに泣いていても、表面上完璧に動いていればそれでいいのだと。
シオンは今、誰に強制されるでもなく、自分から進んでその「機能」だけの存在になろうとしている。それが、ルカにはたまらしく悲しかった。
翌朝。
サヨが朝の仕込みのために厨房へ出ると、店内の様子を見て息を呑んだ。
床の板目は塵一つなく拭き清められ、使い込まれた木のテーブルは磨き上げられて艶を放っていた。かまどの周囲のしつこい煤汚れすら、見事に削り落とされている。
「おはようございます、女将。朝の清掃は完了しております」
シオンが、昨日の昼間と全く同じ、完璧な給仕の笑顔でサヨを迎えた。
彼女は夜通し起き続け、暗闇で警戒をしながら、音を立てずに店中を磨き上げていたのだ。
シオンの顔色は白粉で整えられているが、それを差し引いても、彼女の身体に疲労の兆候は一切見られなかった。
指先は微塵も震えておらず、立ち姿にも狂いはない。彼女の言葉通り、三日間の不眠程度では、彼女のプロフェッショナルとしてのパフォーマンスは落ちないのだ。
彼女は、道具として完璧に自己管理できている。
だが、サヨの胸の奥には、強い危機感が渦巻いていた。
「……シオンちゃん。あなたは確かに、身体の疲れを消すことができるのかもしれないわ。でもね」
サヨは、真っ直ぐにシオンの目を見た。
「人は、鉄や石でできているわけじゃないのよ。心が休まらなければ、身体が動いていても、いつか見えないところが折れてしまうわ」
「お気遣い痛み入ります。ですが、心は任務に不要なものですので、すでに排除しております。折れる心配はありません」
シオンはにっこりと笑った。
彼女は本気で「自分は大丈夫だ」と思っている。感情を殺し、安らぎという感覚を切り捨てて生きるよう訓練されてきた彼女にとって、それは日常なのだ。
サヨは小さく唇を噛んだ。
物理的な限界は来ていなくても、彼女の「人間としての心」は、とうの昔に擦り切れ、悲鳴すら上げられなくなっている。
それに気づけないことこそが、最も恐ろしく、痛ましいことだった。
遠くから、朝の訪れを告げる宿場町の鐘の音が響いた。
「開店の時間ですね。表の木戸を開けてまいります」
シオンは振り返り、軽やかな足取りで入り口へと向かう。
人間としての安らぎを完全に放棄したまま、彼女は今日も完璧な「給仕の笑顔」を顔に貼り付けた。
その見えない心が、悲鳴も上げずに静かにひび割れていく音を、彼女自身だけが知らないまま。




