第29話 影の給仕が来た日
灯火食堂の昼の営業が落ち着いた頃、ミラ商会の使いがひっそりと裏口を訪れ、サヨに一通の手紙を手渡して去っていった。
王室の紋章はないが、見覚えのある封蝋。王弟エリアスからだった。
サヨは静かに封を切った。
そこには、いつものような穏やかな気遣いだけでなく、少し張り詰めた空気を帯びた言葉が並んでいた。
『サヨ殿。王宮内で、わずかですが不穏な動きがあります。
ガイウス医師長が定期的にリーベルへ赴いている記録に、違和感を抱いて探りを入れている者がいるようです。
ルカの存在は完全に伏せており、まだここが悟られたわけではありません。ですが、念には念を入れる必要があります』
サヨは小さく息を呑み、厨房の隅で木の匙を磨いているルカを横目で見た。
彼は少しずつ食べる量が増え、夜もぐっすりと眠れるようになっている。ようやく掴みかけたこの穏やかな日常を、再びあの冷たい王宮の影に脅かされるわけにはいかなかった。
『あなたの善意を疑うようで心苦しいのですが、しばらくの間、見知らぬ者を不用意に店の奥へ入れないよう警戒をお願いします。
同時に、私の信頼する者を一人、そちらへ送ります。
彼女には「灯火食堂の日常を壊すな」と命じてあります。あなたが温かいものを作り、彼がそれを安心して食べる。その当たり前を守るために、どうか彼女を置いてやってください』
手紙を読み終えたサヨは、便箋を丁寧に折りたたみ、深く頷いた。
その日の夕方。
夕食を求める客たちで店が賑わい始めた頃、カランとカウベルを鳴らして、一人の若い女性が店に入ってきた。
灰色の地味なワンピースに、無地の白いエプロン。
どこにでもいる町娘のような質素な身なりをした彼女は、サヨの前に進み出ると、ふわりと柔らかい笑顔を浮かべた。
「今日から給仕としてお世話になります、シオンと申します。よろしくお願いいたします」
声のトーンも、お辞儀の角度も、完璧だった。
彼女こそが、エリアスが送ってきた王弟直属の密偵なのだと、サヨは瞬時に理解した。
「いらっしゃい、シオンちゃん。忙しい時間だから、さっそく手伝ってもらえるかしら」
「はい、お任せください」
シオンはそう言うと、流れるような動作で客席へと向かった。
潜入と偽装のプロフェッショナルである彼女の働きぶりは、見事としか言いようがなかった。
空いた席へ客を誘導する動線には一切の無駄がなく、複数人の注文を一度に聞き取っても決して間違えない。熱い汁物が入った器を運ぶ足取りは軽やかで、かつ、ほんのわずかな音も立てなかった。
「女将さん、いい子が入ったね。愛想が良くて、よく働くじゃないか」
常連の大工が上機嫌でジョッキを傾けながら褒めると、シオンは「ありがとうございます、お口に合って嬉しいです」と、花が咲くような笑顔で応えた。
周囲の客たちも、シオンの気配りの良さにすっかり気を良くし、店内はいつも以上に明るい活気に包まれていた。
ルカはカウンターの隅の定位置から、その様子をじっと見つめていた。
本当に働き者で、笑顔の素敵な給仕さんだ。
けれど、ルカの胸の奥で、何かが小さく警鐘を鳴らしていた。
彼女の笑顔は、あまりにも完璧すぎる。
王宮で、自分に毒の入ったかもしれない料理を差し出してくる侍女たちの、あの貼り付けたような笑顔。
ルカ自身もまた、王太子として周囲に悟られないよう「平気な顔」を作り続けてきたからこそ、彼女の顔に張り付いた分厚い仮面の存在を、本能的に感じ取っていたのだ。
やがて夜が更け、最後の客が満足げに店を出ていった。
サヨが表の木戸にしっかりと鍵をかけ、振り返った瞬間。
「本日の報告をします」
声がした。
先ほどまで客たちに朗らかに笑いかけていたシオンの顔から、一切の感情が抜け落ちていた。
彼女は厨房と客席を隔てる壁の影に音もなく立ち、氷のように冷たく、抑揚のない声で口を開いた。
「来店者数、四十二名。うち、見慣れぬ者が三名。いずれも街道を通る行商人であり、当店への不審な視線や探りの気配は認められませんでした。周囲の路地にも、監視の目は配置されていません。本日の安全度は極めて高いと判断します」
ルカは、ビクッと肩を跳ねさせた。
別人だった。花のように笑っていた給仕の娘はどこにもおらず、そこにいるのは、ただ命令を遂行するためだけに感情を殺し、影として生きる道具の姿だった。
王宮には、こういう人間がたくさんいた。
ルカの心拍数が上がり、背中を冷たい汗が伝う。
「……シオンちゃん、報告はもういいわ」
サヨの穏やかな声が、静かな店内に響いた。
サヨはかまどの前で、残っていた出汁と少しの野菜を小鍋に移し、手早く温め直していた。
「お疲れ様。まずは座ってちょうだい」
「私は警戒任務中です。王弟殿下より、皆様の安全を確保するよう命じられております。座って休息をとる必要はありません」
シオンは壁際に立ったまま、ピクリとも動かずに答えた。
だがサヨは、ふわりと湯気を立てる小さな木の椀を二つ、カウンターに並べた。
一つはルカの前に。そしてもう一つは、ルカの隣の空いた席の前に。
「任務でここに来たのは分かっているわ。でもね、うちで働く人には、座ってご飯を食べる時間があるの」
サヨは、有無を言わさぬ、けれどどこまでも温かい声で言った。
「支障があるなしは関係ないの。ただ一緒に食事をしたいのよ。さあ、あなたの分だから、座って」
シオンの無機質な瞳が、わずかに揺らいだ。
密偵として訓練されてきた彼女にとって、「自分のために用意された食事」を、「自分の意思で座って食べる」という行動は、あまりにも想定外の事態だった。
彼女は戸惑うように視線を彷徨わせたが、サヨが真っ直ぐに見つめてくるため、やがて命令に従うようなぎこちない動作でルカの隣の椅子に腰を下ろした。
ルカは、隣に座ったシオンを恐る恐る見上げた。
彼女の横顔は冷たく強張っている。
「……疲れませんか?」
ルカが、ぽつりと小さな声で尋ねた。
ずっと笑って、それから急に冷たい顔になって、立ちっぱなしで警戒して。
シオンはルカを見下ろし、無感情な声で答えた。
「訓練を受けております。疲労は感じません」
「……そう」
ルカは自分の木の匙を手に取り、ゆっくりと温かい汁を飲み始めた。
シオンもまた、手元に置かれた木の椀を両手で持ち上げた。
「味は、どう?」
サヨがカウンター越しに尋ねる。
シオンは汁を一口すすり、答えるべき言葉を探した。
毒の有無なら判別できる。栄養素の分析もできる。
だが、「美味しいか」「好きか」という、個人の感情を問う質問には、彼女の中のどの訓練記録を引き出しても答えが見つからなかった。
彼女はこれまで、生きるための燃料としてしか、食べ物を口にしてこなかったのだ。
シオンは、椀の底からふわりと立ち上る湯気をじっと見つめた。
両手から伝わる、じんわりとした熱。
それが何という感情をもたらすものなのか、彼女にはまだわからなかった。
「……」
シオンは、困惑したように小さく瞬きをして、ただ一つの事実だけを口にした。
「……温度が、あります」
それは、影として生きてきた彼女が、この灯火食堂で初めて受け取った、人間としてのささやかな感覚だった。




