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第28話 王宮医師長は、食欲という言葉を診断書に書けなかった

昼の喧騒が引き、灯火食堂に穏やかな午後の日差しが差し込む頃。


 表の戸には「準備中」の木札が掛けられ、店内は静けさに包まれていた。

 サヨはカウンターの隅で夜の仕込みに使う根菜を刻み、ルカは少し離れた席で、与えられた布巾を丁寧に畳んでいる。


 昨日、ルカは自分の意思で「お腹が空いた」と言った。


 それだけのことだ。

 けれど、その言葉が出た後のルカの顔色は、これまでになく穏やかだった。

 頬にはほんのりと血の気が差し、背中も少しだけ丸まりすぎなくなっている。


 布巾の角と角を合わせる指先はまだ細い。

 それでも、失敗を恐れて震えるばかりだった手とは違っていた。


 コンコン、と。

 裏口の木戸が控えめに叩かれた。


「はい」


 サヨが手を拭って扉を開けると、そこには目立たない旅用の外套に身を包んだ初老の男が立っていた。


 王宮医師長、ガイウスだった。


 いつもの王宮医師らしい黒い正装ではない。

 外套の裾には道中の土埃がつき、手には診療鞄のほか、薬草の包みと、子ども用の小さな包帯が入った木箱を提げている。


「失礼する」


 短く挨拶を交わすと、ガイウスは中へ入った。

 背筋の伸び方と目の鋭さだけは、どれほど地味な外套をまとっていても隠しようがない。


「今日は、王弟殿下の命による地方施療奉仕です」


 ガイウスは、サヨにだけ聞こえる低い声で告げた。


「この宿場町と、周辺の集落の子どもたちを診て回っています。ここへ寄ったのは、その巡回の途中で休憩を取ったという扱いです」


 サヨは一瞬だけ目を見開き、それから静かに頷いた。


 ルカ一人のために王宮医師が動いたとなれば、どこかで誰かの目に留まる。

 けれど、子どもたちへの施療奉仕であれば、王宮医師が町を訪れても不自然ではない。


 エリアスは、そこまで考えていたのだ。


 ガイウスは不機嫌そうな顔のまま、木箱を足元に置いた。


 王宮の格式と正規手順を重んじる彼にとって、宿場町の子どもたちを一人ずつ診て回ることは、本来なら侍医見習いに任せてもよい仕事だったのかもしれない。

 だが、今日の彼はそれをしなかった。


 午前のうちに、咳の止まらない子どもの胸に耳を当て、擦り傷を膿ませた少年の包帯を替え、痩せた少女の手首を取って脈を測ってきた。

 顔は相変わらず厳しい。

 けれど、診る手つきだけは正確だった。


「では、奥へ」

「ええ。短く済ませます」


 サヨが小さく頷き、ルカの方へ視線を向ける。


 ルカは医師の姿を見て、一瞬だけ肩を強張らせた。

 それでも、すぐにサヨが薬草茶を淹れながら見守っていることに気づくと、小さく息を吐き、畳んでいた布巾を膝の上に置いた。


「ルカ殿。少し、診察をさせてください」


 王宮での癖で、ガイウスの舌は危うく別の呼び方を選びかけた。

 だが彼はそれを飲み込み、ルカの細い手首にそっと指を当てた。


 脈を測る。

 顔色を見る。

 瞳の焦点、呼吸の深さ、魔力の流れを確かめる。


 医師としての冷静な観察眼は、目の前の少年に起きている変化を正確に捉えていた。


 脈は力強い。

 乱れも少ない。

 皮膚の不自然な乾きは消え、魔力の流れも以前のように途切れ途切れではない。


 王宮の離宮で、寝台に沈み込むように衰弱していた少年と同じ人物だとは、にわかには信じがたいほどだった。


(……あり得ない)


 ガイウスは内心で呻いた。


 この食堂で、高度な治癒魔法が使われている形跡はない。

 高価な霊薬が与えられているわけでもない。

 特別な儀式も、希少な薬草も、王宮の医療棟に並ぶような魔導器具もない。


 ただ、木の椀で薄い粥をすすり、白湯を飲み、手の届く仕事を与えられ、平民の生活の中で過ごしているだけだ。


 それなのに、王宮の最高峰の医療と栄養学をもってしても引き戻せなかった生命力が、ここで少しずつ戻っている。


「……脈拍、魔力ともに安定しています」


 ガイウスは手元の診断書にペンを走らせながら、低い声で告げた。


「信じがたいことですが、順調に回復していると認めざるを得ません」


 サヨは彼の前に温かい薬草茶を置き、静かに口を開いた。


「昨夜、ルカは自分から『お腹が空いた』と言いました」


 ピタリ、と。

 ガイウスのペンが止まった。


 彼は弾かれたように顔を上げ、サヨを見た。

 それから、布巾を畳む手を止め、少し照れくさそうに俯いているルカを見る。


「自ら、食欲を訴えたと……?」

「はい。少しですが、根菜のスープを飲み干しました。吐き気もなく、その後は朝まで眠っています」

「……眠った?」

「ええ。途中で起きませんでした」


 ガイウスは言葉を失った。


 王宮でのルシアンは、食事という行為そのものに怯えていた。

 どれほど滋養に満ちた料理を並べても、銀の皿を前にした途端、唇から血の気が引き、ただ首を振るだけだった。


 それが、自分から空腹を口にしたという。


「……どうやって」


 ガイウスは思わず呟いた。


「いや、何を食べさせたのですか」


 問い詰める声音ではなかった。

 医師として、理解できない現象を前にした者の声だった。


 サヨは店の奥へ行き、昨夜子どもたちが持ち込んだ布袋を持って戻ってきた。

 口を開くと、冷えて石のように硬くなったパンと、香辛料の匂いが強く漂う魔獣肉の塊が現れる。


 ガイウスの眉がわずかに動いた。


「これは……神殿の施し食ですね」

「ええ。昨夜、貧民街の子どもたちがこれを食べられずに、うちへ来ました」


 サヨは布袋の中身を見下ろした。


「ルカは、私がその子たちのために別のスープを作るところを見ていたんです」


 ガイウスは硬いパンを手に取り、医師の目で確認した。

 香辛料の量、肉の脂、保存性、栄養価。

 彼の知識はすぐに、その食べ物がどういう意図で作られたものかを読み取った。


「魔獣の肉は滋養に富みます。このパンも保存性が高い。一度に大量のカロリーと栄養を摂取させるための配給としては、理にかなっている」


 彼は淡々と言った。


「少なくとも、彼らの健康を思って作られたものではあるでしょう」

「ええ。栄養の計算としては、間違っていないと思います」


 サヨは否定しなかった。


 けれど、真っ直ぐにガイウスの目を見つめ返す。

 その声は静かだった。

 静かだからこそ、譲らないものがあった。


「でも、食べる人の顔を見ずに届いた善意は、うちの鍋には入れられません」


 ガイウスは、返す言葉を探すように唇を引き結んだ。


「日頃からまともな食事をとれず、胃腸が弱り切っている小さな子どもには、硬いパンは噛み砕けません。脂の強い肉も、香辛料のきついものも、身体が受けつけないことがあります」


 サヨは、畳まれた布巾の端をそっと整えながら続けた。


「相手が今、どんな状態で、何を怖がっていて、何なら無理なく喉を通るのか。それを見て、その人に合ったものを差し出す。……それが食事の世話だと、私は思います」


 ガイウスの胸に、その言葉は深く沈んだ。


 王宮でのルシアンの食卓。

 最高級の食材。

 最高の料理人。

 完璧な栄養計算。

 命を守るための厳重な毒見。


 それらはすべて、王太子を健康に生かすためのものだった。

 悪意など、なかったはずだ。


 だが、誰も「ルシアンという一人の子どもの顔」を見ていなかったのではないか。


 豪華な皿を前にした彼の胃が、恐怖で縮み上がっていたこと。

 毒見役の視線、侍従たちの沈黙、食べなければならないという重圧。

 それらがどれほど彼を追い詰めていたのか。


 善意と正しさで整えたはずの食卓が、結果として少年を遠ざけていたのだとしたら。


「昨夜、子どもたちはスープを飲みました」


 サヨは鍋の方へ目をやった。


「大根と人参を小さく切って、薄い出汁で煮ただけです。強い香草も、油も使っていません。けれど、その子たちは食べられました」


 ルカが、膝の上で布巾を握る。


「ルカはそれを見ていました。食べられない子が、食べられるものをもらって、安心して息をつくところを」


 サヨの視線が、ルカにやわらかく向けられる。


「だから、自分も安心して『お腹が空いた』と言えたのだと思います」


 ガイウスは反論できなかった。


 それは医療の敗北、と片づけられるものではない。

 薬でも魔法でもない、日常の手当て。

 身体だけでなく、怖がっている心ごと見て、少しずつ食卓へ戻していく行為。


 王宮の医療棟では、記録に残されにくいもの。

 けれど確かに、命を支えているもの。


 ガイウスは再び診断書へ目を落とした。


 脈拍、正常。

 魔力、安定。

 顔色、良好。

 睡眠、改善傾向。


 そこまでは、医師として迷いなく書き込むことができる。


 だが、彼を死の淵から少しずつ引き戻している最大の要因を、どう記せばよいのか。


 安心。

 湯気。

 見守る目。

 無理に食べさせない手。

 そして、身体の奥から自然に湧いた空腹。


 それらはどれも、診断書の項目にはない。


 ガイウスはペンを持ったまま、長く深い息を吐いた。

 診断書の余白が、やけに白く見える。


 やがて彼は、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。


「……食欲、か」



     *



 王都の夜は、宿場町リーベルの夜よりもずっと冷たい。


 貴族街の奥、表向きには使われていない古い書斎で、一人の男が薄い帳面を開いていた。


 王宮の出納記録と、施療奉仕の許可状の写し。

 薬草。

 包帯。

 馬車の手配。

 王弟殿下の封蝋。

 地方施療奉仕の名目。


 記録そのものに、不審な点はなかった。


 冬を前に、王都近郊の宿場町と周辺集落を巡り、子どもたちを診察する。

 民への慈善としては、珍しいことではない。

 王弟殿下が民のために医師を遣わしたというなら、むしろ美談として扱われるだろう。


 だが、帳面を見ていた男の指が、ある名の上で止まった。


「……ガイウス?」


 王宮医師長ガイウス・ヴェルナー。

 その名を見た瞬間、男の口元から笑みが消えた。


 あの男は、王宮の格式と正規の手順に異様なほどこだわる。

 貧民街の施療所に顔を出すことさえ、以前なら侍医見習いの仕事だと切り捨てたはずだ。


 そのガイウスが、自ら王都を離れた。

 それも、王弟殿下の手配で。


 行き先のひとつは、宿場町リーベル。


「……妙だな」


 男は低く呟いた。


 王太子は、もう長くはもたないはずだった。

 いや、手筈通りならば、すでに命を落としていてもおかしくない。


 王宮が死を伏せているのだとしても、王宮医師長が地方の子どもを診る名目で動く理由は薄い。

 ましてや、あのガイウスが自ら足を運ぶなど。


 死んだ子どもに、医師はいらない。


 男は帳面を閉じ、奥に控えていた影へ声をかけた。


「宿場町リーベルを調べろ。だが、騒ぎは起こすな」

「王太子殿下を、でございますか」

「まだその名を出すな」


 男の声が、わずかに低くなる。


「まずは、ガイウスが何を診たのかを確かめろ」


 影が、音もなく頭を垂れる。


 その頃、灯火食堂では、ルカが小さな寝台の中で眠っていた。

 枕元の橙色の灯りが、怖い夢を遠ざけるように、静かに揺れている。


 王都の冷たい帳面に、小さな違和感がひとつ刻まれたことなど、まだ誰も知らなかった。

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