第27話 怒った女将が町の子どもたちに鍋を満たした夜、ルカは初めてお腹が空いたと言った
夜も更け、街道を行き交う人々の声も途絶えた頃。
灯火食堂の店内は、一日の営業を終えたあとの深い静けさに包まれていた。
サヨはかまどの火を落とす準備をしながら、使い終えた調理器具を手際よく洗い上げていた。
湯を張った桶の中で木べらが小さく鳴り、洗い場の端から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと規則正しく音を立てる。
ルカは、厨房の火の気がいちばん届くカウンターの隅に座っていた。
自分の前に置いた木のコップを、乾いた布巾でゆっくりと拭いている。
まだ重い鍋を持つことも、長く立って働くこともできない。
それでも、ほんのささやかな手伝いを任されるたびに、ルカは少しずつ、この場所にいていいのだと確かめているようだった。
自分で選んだ深い青のシャツの袖をまくり、真剣な眼差しでコップを磨く横顔には、王宮の離宮で怯えきっていた頃に比べれば、ずいぶんと子どもらしい血の気が戻ってきていた。
コン、コン、コン。
ふと、裏口の木戸が弱々しく叩かれた。
夜風が戸板を揺らしただけかと思うほど、遠慮がちで小さな音だった。
「……はーい」
サヨは手を布巾で拭い、裏口へ向かった。
念のため、扉越しに外の気配を確かめてから鍵を外す。
細く開けた扉の向こうに立っていたのは、町の貧民街に住む子どもたちだった。
四人。いや、奥にもうひとり、小さな影が隠れている。
どの子も薄着で、夜の冷気に肩を震わせていた。
「どうしたの、こんな夜更けに」
サヨが目線を合わせてしゃがみ込むと、一番年長と思われる少年が、胸に抱えていた布袋を震える手で差し出した。
「女将さん、夜分にごめん……」
「うん」
「今日、神殿から施しのご飯をもらったんだけど、どうしても……みんな、食べられなくて」
「食べられない?」
少年は、うなずいた。
その横で、小さな女の子が唇を噛んでいる。泣き出すのを必死にこらえている顔だった。
「もしよかったら、残ったパンの耳とか、野菜の切れ端なんかでいいから……これと交換してもらえないかな」
申し訳なさと情けなさで、少年の声は今にも崩れそうだった。
サヨは布袋を受け取り、中を確認した。
入っていたのは、神殿が孤児や貧民向けに定期的に配っているという施し食だった。
冷えきって、石のように硬くなったパン。
そして、日持ちさせるためなのだろう。強い香辛料がまぶされ、油分が白く固まった魔獣肉の塊。
神殿の施しが、悪意から来るものではないことは分かる。
一度に栄養を摂らせようという考えもあったのだろう。遠くへ運ぶため、傷みにくくしなければならない事情もあるのかもしれない。
けれど、日頃からまともな食事をとれず、胃腸が弱りきっている小さな子どもたちが、空腹の夜にいきなりこんな重く硬いものを飲み込めるはずがなかった。
無理に食べれば、胃が痙攣して吐き戻してしまう。
子どもたちは、せっかくの善意を受け取りながら、自分たちの身体がそれを受け付けないことに困り果てて、藁にもすがる思いでこの食堂へやって来たのだ。
「……」
サヨは、無言で立ち上がった。
神殿を罵倒することはしなかった。
無神経だと怒鳴り散らすこともしなかった。
ただ、口元が固く結ばれた。
その瞳には、静かな、けれど底の見えない怒りが宿っていた。
「交換じゃなくていいよ」
サヨは布袋の口をそっと結び直し、子どもたちに背を向けないまま言った。
「まず、ここへ座りなさい。寒かったでしょう」
子どもたちは顔を見合わせた。
遠慮と空腹の間で迷うように足を止めていたが、サヨが扉を大きく開けると、おずおずと店の中へ入ってきた。
サヨは、厨房の熱が届く温かいテーブル席へ子どもたちを案内した。
濡れた袖の子には乾いた布を渡し、裸足に近い足の子には足元へ小さな火鉢を寄せる。
「手をこすって。急に火に近づけすぎないでね」
「……うん」
子どもたちがぎこちなく手を温めるのを見届けてから、サヨは厨房へ戻った。
片付けようとしていた中鍋を、もう一度水で勢いよく洗い流す。
かまどに薪を足し、火を起こした。
乾いた薪がぱちりと弾ける。
眠りかけていた灯火食堂に、ふたたび赤い火が灯った。
サヨは大根と人参を取り出し、皮をむいて細かく刻み始めた。
弱った胃にも負担が少ないように、薄く、小さく。
歯の弱い子でも噛めるように、角を残さず。
トントン、トントン。
静かな厨房に響く包丁の音は、いつもより少しだけ鋭く、そして速かった。
沸かした湯に出汁を入れ、刻んだ根菜を落とす。
塩はほんの少し。味を整える程度。
香りの強いハーブは入れない。油も足さない。
ただ、冷えきった身体を内側から温め、弱った胃に負担をかけず、空っぽの腹にじんわり染み込むための、極限まで優しいスープ。
ルカは、カウンターの隅でその様子を息を潜めて見つめていた。
サヨは振り向かない。
誰かを責める言葉も吐かない。
ただ、目の前にいる「食べられなくて困っている子ども」を、食べられるようにするためだけに動いていた。
その真っ直ぐな背中を見ていると、ルカの脳裏に、この食堂を訪れた大人たちの顔が浮かんだ。
彼らもきっと、最初から強かったわけではない。
かつては今夜の子どもたちと同じように、弱くて、飢えていて、どうしようもなく傷ついていたのだろう。
そして、このサヨの鍋の前に座った。
怒りと優しさを込めて作られた温かいものを食べて、少しずつ、強い大人になっていったのだ。
やがて、鍋の中の根菜が柔らかく煮えた。
サヨは硬いパンを小さく割り、湯にくぐらせてから、スープと一緒に椀へよそった。
子どもたちの前に、温かい湯気を立てる根菜のスープと、やわらかく煮たパンが並ぶ。
「さあ、ゆっくりお食べ。熱いから、少しずつね」
その声は、いつもの温かい女将の声に戻っていた。
子どもたちは、おずおずと木の匙を手に取った。
まず年長の少年が、恐る恐るスープをすくう。
息を吹きかけ、ほんの少しだけ口に含んだ。
ごくり、と喉が動く。
次の瞬間、こわばっていた少年の顔が、湯気の中でふわりとほどけた。
「……食べられる」
小さな声だった。
けれど、その一言を聞いた他の子どもたちも、次々に匙を動かし始めた。
大根の甘み。
人参のやわらかさ。
出汁の温もり。
強い香りも、重い油もない。ただ、身体が拒まなくていい食べ物。
誰も、食べることを怖がっていなかった。
食事という行為が、罰でも試練でもなく、ただ生きるための喜びとして、そこにあった。
ルカは、その光景をじっと見つめていた。
食べられなくて震えていた子どもたちが、サヨのスープを飲んで、ほっと息をつく。
顔を見合わせる。
少し笑う。
その笑みは、空腹が満たされた者の笑みだった。
誰かに受け入れられた者の笑みだった。
やがて、椀を空にした子どもたちは、何度も頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「女将さん、ありがとう」
「……また、働けるようになったら、ちゃんと返す」
年長の少年がそう言うと、サヨは首を横に振った。
「明日、ちゃんと起きること。寒いところで寝ないこと。それでお返しは十分」
少年は泣きそうな顔でうなずいた。
サヨは残った硬いパンと魔獣肉を預かり、代わりに、明日の朝温め直せるよう、薄いスープを小さな壺に分けて持たせた。
子どもたちは壺を抱え、何度も振り返りながら夜の町へ帰っていった。
サヨは彼らの小さな背中を見送り、裏口の扉をしっかりと閉めた。
鍵をかけ、少しだけ額を戸板に預ける。
店の中が、再び静寂に包まれた。
客はもういない。
厨房に残っているのは、かまどの前に立つサヨと、カウンターの隅に座るルカだけだった。
サヨは鍋の前に戻り、子どもたちに出したスープの残りを、木べらでゆっくりとかき混ぜた。
コトコトという、かすかな音。
漂ってくる、野菜と出汁の甘い匂い。
ルカは、コップを拭いていた手を止めた。
そして、サヨの背中をじっと見つめた。
誰かを食べさせるために、黙って動く背中。
食べられないことを責めるのではなく、ただ食べられるように工夫してくれる温かい手。
この十七年間、サヨはどれほど多くの人を、こうして救ってきたのだろう。
ルカは、その答えを知らない。
けれど今夜、少しだけ分かった気がした。
その時だった。
胸の奥で、何かが小さく動いた。
きゅっ、と胃袋が縮まるような感覚。
それは、王宮で銀の皿を前にした時に襲ってきた吐き気ではなかった。
毒を盛られるかもしれないという恐怖でも、期待に応えなければならないという重圧でもない。
ただ、身体の奥から湧き上がる、あまりにも素直な声だった。
生きたい。
温かいものを、食べたい。
「サヨさん」
ルカは、ぽつりと言った。
静かな店内に、少しかすれた、けれど確かな意志を持った声が響いた。
「……僕、お腹が空いた」
コトコトと鳴っていた音が、止まった。
鍋をかき混ぜていたサヨの手が止まった。




