第26話 五人の元常連は、王子ではない子を急がせなかった
灯火食堂の朝は、かまどの火が爆ぜる微かな音と、湯気とともに立ち上る出汁の匂いから始まる。
サヨは使い込まれたエプロンの紐を背中で結び、いつものようにまな板の前で野菜を切り始めた。
とん、とん、という小気味よい音が、まだ客の少ない店内に響く。
ルカは、厨房の火の気が届くカウンターの隅に座っていた。
着ているのは、数日前にミラが持ってきてくれた服の中から、ルカ自身が「これがいい」と選んだ青いシャツだ。
少し長い袖を、小さな手で不器用に、けれど自分の意思で丁寧にまくり上げている。
膝の上には、リナが使わせてくれた湯たんぽがあった。
今朝はもう冷めている。けれど、布越しに残る重みだけで、あの温かな手のひらを思い出せた。
棚の手前には、レオンと一緒に洗った、少し傷のある木の椀が置かれている。
枕元には、夜になるとノアの小さな灯りが揺れる。
椅子の背には、ミラが選ばせてくれた替えの上着。
カウンターの端には、ユリウスが見せてくれた帳簿が、今日も静かに置かれていた。
王宮にはなかったものばかりだった。
けれど今のルカには、それらが、自分を急がせずに囲んでくれているもののように思えた。
ルカは、まだ元気な子どもには戻っていない。
大声で笑って走り回ることも、椀を空にして「おかわり」と言うこともない。
王宮で染みついた恐怖は、湯気をひと吹きしたくらいでは消えなかった。
それでも、変わったことはある。
サヨに促される前に、ルカは白湯の入った木のカップへ手を伸ばした。
両手で包み、ゆっくりと口に含む。
それから、カウンターの上に置かれていた人数分の木の匙を、自分なりにまっすぐ並べ直した。
使い終わった布巾があれば、端と端を合わせて畳もうとする。
まだ少しずれる。けれど、サヨは直さず、そのまま受け取った。
目の前の木の椀には、ごく薄い粥が入っている。
ルカはしばらく湯気を見つめ、それから木の匙を持った。
一口。
少し間を置いて、もう一口。
それだけで手は止まった。
けれど、昨日のように慌てて匙を置くことはなかった。
椀の中に残った粥を、責められるもののようには見なかった。
からん、と表の木戸が開き、朝の常連である荷馬車引きの男が入ってきた。
以前なら、他人の気配だけで肩を強張らせていたルカだったが、今は違った。
木の匙を並べる手を一瞬だけ止め、入ってきた男の方を見て、こくりと小さく会釈する。
「おう、おはようさん」
男は軽く応え、いつもの席にどっかり腰を下ろした。
ルカのことを詮索しない。特別に驚きもしない。
ただ、そこにいる子どもとして受け入れている。
ルカは、また手元へ視線を戻した。
誰も、彼を急かさなかった。
リナは、食べられない日をダメだと言わなかった。
レオンは、服を濡らしても怒らなかった。
ミラは、正解を教えず、選ぶのを待った。
ノアは、眠れない夜に、寝ろとは命じなかった。
ユリウスは、数字を怖がるルカを笑わなかった。
誰も、「もう大丈夫」とは言わない。
誰も、「強くなれ」とは言わない。
そのことが、ルカには不思議だった。
王宮では、弱さは直すべきものだった。
急いで隠し、押し込め、なかったことにしなければならないものだった。
けれど、この食堂に来る大人たちは違う。
皆、立派な顔をしているのに、サヨの前では少しだけ昔に戻る。
そして、自分にも弱かった時があったと、静かに話してくれる。
昼前になり、朝の客たちが引いて、店内に再び静けさが戻った頃。
ルカは、匙の跡が二つだけ残った粥の椀を見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「サヨさん」
「なあに?」
サヨは包丁の手を止めず、優しい声で応じる。
「このお店に子供頃よく来ていたあの人たちは」
ルカの声は小さかった。
けれど、途中で消えなかった。
「みんな、立派な大人なのに。昔は、ご飯が食べられなかったり、眠れなかったり、何も選べなかったりしたって、言っていました」
湯気の中に、言葉がゆっくり溶けていく。
「みんな、昔は……弱かったのですか?」
サヨは包丁をまな板に置いた。
布巾で手を拭い、カウンター越しにルカを見る。
それから、静かに首を横に振った。
「弱い時があっただけよ」
その言葉は、湯に砂糖が溶けるように、ルカの胸の奥へ落ちていった。
「弱い人だったわけじゃないの。ただ、そういう時期があっただけ」
サヨは、少しだけ微笑む。
「人はね、ずっと強いままではいられないわ。けれど、ずっと弱いまま終わるとも限らないのよ」
弱い時があっただけ。
ルカは、その言葉を心の中で繰り返した。
王宮では、強いか、役に立たないか、その二つしかないように思っていた。
食べられない自分は欠けた王太子で、眠れない自分は情けなくて、何かを選べない自分は失敗なのだと。
けれど、あの美しい治癒師長にも。
大きな騎士団長にも。
堂々とした商会長にも。
静かな魔術師団長にも。
隙のない宰相補佐にも。
立ち止まっていた時があった。
そして彼らは、この食堂で湯気のあるものを受け取り、叱られたり、待たれたり、見守られたりしながら、少しずつ今の大人になった。
なら。
食べられなくて、眠れなくて、夜が怖くて、正解ばかり探してしまう今の自分も。
これで終わりではないのかもしれない。
ずっと弱い人間なのではなく、ただ、途中にいるだけなのかもしれない。
ルカは、目の前の木の椀を両手で包み込んだ。
椀の底に残った粥は、もう少し冷めている。
それでも、ルカはそれを責めるようには見なかった。
ただ、そこにある途中のものとして、静かに見つめていた。
*
その日の夜。
静まり返った食堂で、サヨは一通の手紙を読んでいた。
王都のエリアスから届いた、封蝋のされた手紙だ。
先日、サヨが初めて「少し疲れました」と書いたことへの返事だった。
『サヨ殿。
あなたは、人を急がせずに待つことができる。
それがどれほど難しく、そして尊いことか、私は知っています。
どうか、あなた自身にも同じだけの猶予を与えてください。
あなたの時間が、少しでも穏やかでありますように』
命令ではなかった。
何かを強いる言葉でもなかった。
ただ、サヨの在り方を見て、そのまま大切にしようとする気遣いがあった。
サヨは、上質な羊皮紙の手触りを指先で確かめながら、小さく息を吐いた。
張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けていく。
十七年間、この食堂を一人で守ってきた。
弱音を吐くより先に鍋をかき混ぜ、疲れたと言うより先に椀を出してきた。
けれど、この手紙の前では、少しだけ息をしてもいいような気がした。
サヨは手紙を丁寧に折りたたみ、厨房の隅の簡易寝台へ視線を向ける。
ルカは、穏やかな寝息を立てていた。
枕元にはノアの小さな灯りが淡く揺れ、椅子の背には青いシャツの替えがかかっている。
棚の手前には、ルカが洗った木の椀があった。
見えない鎖は、一度にほどけるものではない。
けれど、五人の元常連たちと、サヨの手によって、一つ、また一つと緩んでいる。
それは間違いなく、サヨが十七年間積み上げてきたものの成果だった。




