第25話 宰相補佐は、粥の数を帳簿に残す理由を教えた
朝の忙しい時間が過ぎ、灯火食堂には穏やかな午前の空気が満ちていた。
サヨはカウンターを丁寧に拭き上げながら、かまどの火を細く調整している。
鍋の中では、余った野菜の切れ端や鶏の骨から取ったまかない用のスープが、静かに湯気を立てていた。
ルカは、厨房の火の気が届くいつもの隅の席に座っている。
自分で選んだ柔らかい青いシャツの袖を少しまくり、両手を膝の上で組んでいた。
ここ数日、かつてこの食堂に通っていたという大人たちが、少しずつルカの前に現れている。
食べられない日があってもいい。
失敗して服を濡らしてもいい。
夜は安心して目を閉じていい。
自分で選んでもいい。
王宮では許されなかったことを一つずつ受け取るたび、ルカの呼吸は少しずつ深くなっていた。
まだよく笑うわけではない。よく食べるわけでもない。
けれど、肩に入っていた力は、昨日より少しだけ抜けている。
こん、と。
表の木戸が、控えめに叩かれた。
サヨが扉を開けると、仕立ての良い深紺の外套を着た青年が立っていた。
銀縁の眼鏡の奥で、翡翠色の瞳が静かに細められる。
「おはようございます、サヨさん。少しよろしいですか」
王国宰相補佐、ユリウス・クラウゼだった。
口元には柔らかな微笑みがある。
だが、その身から漂う隙のなさに、遅めの朝食をとっていた常連客が、無意識に背筋を伸ばした。
ユリウスはそれに気づいたのか、困ったように眉を下げる。
「非番です。今日は、少し店の物資を見せていただくだけですから」
声は穏やかだった。
けれど、常連客たちはやはり、いつもより少しだけ姿勢よく椀を持っている。
「ユリウス。いらっしゃい。ちょうどお茶を淹れようと思っていたところよ」
サヨは、いつもと変わらない温かい声で迎えた。
「それは嬉しいですね。……今日は、店の物資と支出の確認に参りました」
ユリウスはそう言って、カウンターの一角に腰を下ろす。
サヨは頷き、棚の奥から使い込まれた革張りの手帳を取り出して、彼の前に置いた。
灯火食堂の帳簿だ。
ルカは、少し離れた席からその様子を見つめていた。
ユリウスが眼鏡の位置を直し、ぺら、と帳簿のページをめくる。
古い紙が擦れる、乾いた音がした。
王宮で、ルカも数字については厳しく教え込まれてきた。
年間の税収。兵士の数。穀物の収穫量。飢饉や流行り病で失われた領民の数。
王太子が学ぶ数字は、いつも冷たく、重かった。
上から管理し、間違えてはならないもの。
数字が一つ動くたびに、人が死に、国が揺れるのだと、家庭教師たちは何度も言った。
ルカにとって帳簿とは、人を縛り、追い詰めるものだった。
「……なるほど。三日前の雨の日は、薪の消費が少し増えていますね」
ユリウスが、帳簿の数字を指でなぞりながら静かに言った。
「ええ。冷たい雨だったから、温かい汁物がいつもよりよく出たのよ」
サヨは温かい薬草茶を彼の前に置きながら答える。
「その分、子ども用のスープが五つ。薄い粥が二杯。売り物にならない野菜の切れ端も、無駄なく鍋に入れていますね。残飯の量が減っている」
ルカは目を瞬かせた。
ユリウスが読み上げているのは、王宮で聞いたような冷たい税の数字ではない。
子ども用のスープ、五つ。
粥が、二杯。
雨の日に出た、温かい汁物。
「あの日は冷えたからね。雨宿りに入ってきた子たちに、温かいものを飲ませてあげたくて、ずっと火を焚いていたのよ」
サヨが鍋の様子を見ながら、ふわりと笑う。
ルカは、帳簿を開くユリウスの手元をじっと見た。
ただのインクで書かれた数字のはずだった。
けれど不思議と、その向こうから冷たい雨の匂いや、濡れた髪をした子どもたち、両手で椀を包んで湯気に顔を寄せる姿が浮かんでくるような気がした。
ふと、ユリウスが顔を上げ、ルカの方を見た。
「……数字は、怖いですか?」
穏やかな、けれど本質を見透かすような問いかけだった。
ルカはびくっと肩を揺らし、膝の上の服の裾を握る。
否定しようとした。
けれど、首は横に振れなかった。
「私も昔は、数字が嫌いでした」
ユリウスは、帳簿の端を長い指でそっと撫でる。
「私は貴族の家に生まれましたが、正妻の子ではありませんでした。実家では、私の価値はいつも、どれだけ有益な数字をもたらすかで測られていた」
翡翠の瞳が、少しだけ遠くを見る。
「重圧で常に胃を痛めて、豪華な食事は一口も喉を通りませんでした。そんな時にこの食堂へ逃げ込んで、サヨさんに消化のいい粥を作ってもらったのです」
ユリウスは、サヨの文字が並んだ帳簿を指差した。
「そして、この帳簿のつけ方を教わりました」
サヨは少しだけ肩をすくめる。
「教えたなんて大げさよ。今日は卵がいくつで、明日は粉をどれだけ買うか。それを一緒に数えただけ」
「その数え方が、私には必要だったんです」
ユリウスは、静かに笑った。
「王宮の予算書には、人の顔は書かれていません。ですが、この店の帳簿には、今日誰が何を食べて温まったか、その生活の温度が残っている」
そして、まっすぐにルカを見る。
「数字は、人を追い詰めるためだけのものではありません」
ルカは息を止めた。
「明日も、明後日も、お腹を空かせた人に温かい粥を食べさせ続ける。そのためにも、必要です」
人を追い詰めるためではなく、食べさせ続けるための数字。
ルカは、サヨが煮込んでいる鍋から立ち上る湯気と、帳簿の上の数字が、頭の中で静かにつながるのを感じた。
王宮で習った冷たい数字の羅列が、ほんの少しだけ、温かな体温を持ったように思えた。
ユリウスは薬草茶を一口飲み、満足げに息をつく。
「サヨさん、帳簿は問題ありません。むしろ、相変わらず無駄が少ない」
「それはよかったわ」
「ただし、あなたが働きすぎている数字も少し見えます」
サヨの手が、一瞬だけ止まった。
ユリウスは微笑んだまま、帳簿を閉じる。
「店の火を守るには、薪だけでなく、女将の休息も必要です。そこも支出として計上してください」
「……相変わらず、口がうまいのね」
「宰相補佐ですので」
そのやり取りに、近くの常連が小さく肩を震わせた。
ルカも、意味をすべて理解したわけではないが、サヨが少しだけ困った顔をしているのを見て、胸の奥が不思議に温かくなった。
ユリウスは立ち上がり、帳簿をサヨへ返す。
「では、私はそろそろ。あの子のこと、どうか無理のない範囲でお願いいたします」
「ええ。ありがとう、ユリウス」
静かなやり取りの後、ユリウスは再び完璧な宰相補佐の顔に戻り、店を後にした。
*
その日の夜。
ルカが簡易寝台で静かな寝息を立て始めた頃、サヨはランプの灯りの下で、便箋に向かっていた。
王都にいるエリアスへ宛てた手紙。
これまでは、ルカのその日の様子を事務的に報告するだけだった。
けれど今日は、少しだけペン先が迷う。
サヨは、昼間にルカが帳簿を見つめていた真剣な眼差しを思い出した。
『エリアス様。
今日は、ユリウスが店の物資確認に来てくれました。
ルカは彼の見せてくれた帳簿を、ただの数字の羅列ではないように、じっと見ていました。
粥の数や、スープの数。そこにある生活の温度を、彼なりに感じ取ってくれたのだと思います』
そこまで書いて、サヨはペンを止める。
十七年間、一人で店を切り盛りしてきた。
誰かに弱音を吐くことも、労わられることも、いつの間にか下手になっていた。
けれど、先日届いたエリアスの手紙の一文が、胸の奥に残っている。
どうか、あなた自身も温かいものを口にしてください。
サヨは、水仕事で少し荒れた自分の指先を見つめた。
それから、ゆっくりと息を吐き、便箋の最後に小さな一行を書き足す。
『ルカが少しずつ安心していく姿を見るのは嬉しいです。
でも、私も、今日は少し疲れました。
明日は、朝の仕込みを少しだけ遅らせて、ゆっくりお茶を飲もうと思います』
弱音とも言えないような、ささやかな本音。
それでも、それを切り捨てずに受け止めてくれる人がいる。
そのことが、サヨの心を静かに緩めた。
ペンを置き、サヨはそっと振り返る。
ルカは、穏やかな寝息を立てている。
彼はもう、帳簿の端に並んだ粥の数を、ただの冷たい数字だとは思えなくなっていた。




